
齢四八になった。時折孤独を感じる。子供四人がそれぞれ自分の道を歩み始め、奥方も自分の趣味を見つけて忙しそうだ。大学の助教授というのはある意味自由業で、昼間の時間を家で過ごすことが意外と多い。と、誰もいない家にポツンと取り残された気がする。まるで荒野のリングに一人立っているという感じなのだ。一体この歳になるまで自分は何を求めて汗をかいてきたのだろうか?
一昨年、大学の特別研究期間を利用して、「総合格闘技」研究調査の旅を思いついたのも、どこかでこの孤独が予測されていたからかもしれない。私にとってレスリングというのは一体何だったのか?恐らくこのスポーツが人生の非常に重要な部分を占めているはずで、そのことを世界の格闘技を見つめる中ではっきりと知りたかった。
研究調査といっても、いわゆる学者型にはどうしてもなれない。自分で実際にその場に赴き、時には、自らの体を使って実験してみなければ納得できない。一年をかけて、アラブ諸国、フィリピン、米国、そしてギリシアに足を運んだ。フィリピンでは総合格闘家たちにレスリングを教え、米国では柔術道場で挑戦を受けた。それぞれの土地にそれぞれの格闘技が存在していた。しかもそれはある意味すべて総合格闘技であった。パンチ、キック、関節技が組み合わされている場合が多いのだ。いわばプライド的なもの、K1的なものが世界に潜在している。五万人もの人々を集めるプライドやK1には及ばないにしても、世界各地の格闘技にも真摯な格闘家と熱狂的な信者が存在している。
十六歳から始めたレスリングは、私にとって最愛の格闘技であるが、実に「四年に一度の主役」と言われるマイナー競技である。しかし、世界の格闘技を体験していく中で、レスリングと総合格闘技を結ぶひとつの線がおぼろげながら見えてくるのだった。
「四年に一度」でも主役になった時が、この私にもあった。一度目は、ロサンゼルス五輪、一九八四年の夏。銀メダリストとなった。日本レスリング史上初の「重量級」でのメダル獲得だった。体の小さな日本人がこのクラスでメダルを取るのは無理と言われていただけに、「歴史的快挙!」とまで言われた。実際、レスリング協会でも期待をしていなかったようで、この時もそれまでの世界大会と同じく軽量級の試合分析のために、ビデオ収録部員の任も背負っていた。ビデオ担当は「すぐ負けるが、力のある」重量級の伝統的な仕事だったのである。期待を裏切って、銀をとったものの、一方で、「片肺五輪だから」の仄聞。一時は引退と決めていたが、ソウル五輪出場を目指した。
それが二度目の主役。一九八八年。予選で肋骨を骨折したのが響き、金メダルには届かなかったが、二つ目の銀を獲得した。決勝戦で上半身を包帯で雁字搦めにした私を記憶している御仁もおられるだろう。が、予選の六戦中、四回をフォール勝ちしたこの時の試合は、自分の得意技が面白いように決まった。組み手争いから「一本背負い」を決めて勝つパターンは、ロス五輪以来世界の舞台に登場していなかった。忘れられていたスタイルで、レスリング界を驚かせたことが、銀メダルよりもうれしいくらいだった。特に五回戦で対戦した米国選手は、世界ランク二位のシェアルで、彼と試合は、今も鮮明に脳裏に蘇る。
この試合でフォール勝ちを収めれば、次の六回戦を負けても決勝進出が決まる。負ければそれまで。しかし、私の肋骨は四回戦で折れていた。試合になれば痛みは忘れるもので、その時も何とかなると思っていた。しかし、シェアーの攻撃は強烈だった。執拗なタックルでポイントを八点も取られた。どこかで胸元をかばっていたのかも知れない。私は一ポイントを返すのがやっと。残り時間わずか。賭けに出た。シェアーがタックルに来るところを狙った。相手の力を利用して、そのまま後方ブリッジ回転固めを決めた。大逆転技オオタスペシャルが生まれた。
研究の旅の終わりに、ギリシアはオリンピアのパレイストラ(闘技場)の遺跡を彷徨い歩いた。涙が溢れ出して止まらなかった。あの涙は何だったのだろう。「誰が一番強いのか」私がレスリングに求めていたもの。それと同じ問いを数千年前の格闘家たちの魂が叫んでいた。その声は、土着の格闘技にも、プライドやK1のリングにも聞こえるはずだ。