
固唾を呑んだ。ヒョードルとミルコのPRIDEヘビー級タイトルマッチが眼前で行われている。サンボ、柔道をバックグラウンドにリングスで二冠を制し、プライドに参戦以来負けたことがないヒョードルに勝てるとしたらミルコのキック以外には浮かばなかった。ミルコ紹介の試合前に流れたボスニア紛争の映像。それまでユーゴスラビアという国で共存融合してきたセルビア、ボスニア、クロアチアの人々がソ連崩壊とともに、悲惨な闘いに入った。その戦禍にミルコの父親も犠牲となったという。戦いの中で新国家、クロアチアが生まれた。ミルコの後ろにクロアチアの人々が映る。クロアチアが戦ってきたものが、ヒョードルの無敵さに重なる。この試合が単なるスポーツに見えなくなる。ロシア対クロアチアの代理戦争にも思える。
一触即発の緊張がリングサイドにも伝わる。ヒョードルの闘いは周到に準備されたとおりに進んだ。ミルコの嫌がる距離に迫り、ミルコの嫌がる左周りに追い詰めた。そのプレスを跳ね除けるように一発を狙うミルコ。ミルコが左ストレートをヒョードルの顔面にヒット。あのヒョードルがよろけた。ひょっとしたらと思った最初の瞬間だったが、ヒュードルは直後グラウンドに持ち込む。さすがだ。しかしグラウンドになってもミルコが下から出すパンチ、キックでヒュードルも思うようにパウンドできない。ミルコはヒョードルの殺戮パンチを巧みに交わす技術を身につけていた。これなら行ける。ひょっとしたらと思った。しかし、これが最後のひょっとしたらだった。ヒョードルは顔面から流血しながら上からのプレスをやめない。ミルコの闘いは次第に防衛に体力を消耗させていった。
ヒュードルの強さは一体何だろう。そこに私が見るのは、心技体を駆使して相手に勝利するスポーツとは、流れを異にするひとつの源流である。それは、私が「格闘技を訪ねる旅」では封印していた恐ろしい源流でもある。彼の一撃は相手にダメージを与えるためにではなく、敵の息の根を止めるために発せられる。彼の関節技は相手の関節をきめるためではなく、敵の骨を折るためのものだ。この技は生死を分けるまさに戦争状態におけるリーサル・ウィポンとして鍛え上げられた能力にだけ身につくものだ。
「コマンド・サンボ」という格闘技があるのを知ったのは、今から二十年前、私の宿敵、ロシアのワッハ・エブローエフからだった。東側諸国が出なかったロス五輪の翌年、日本で行われたスーパーチャンピオンという大会に東西のアマレス選手権保持者が呼ばれた。強豪ソビエトのエブローエフにリーグ戦で対戦。まさかの勝利。忘れもしない一九八五年五月六日のことだ。私のロス銀メダルを裏付けてくれた結果を素直に喜んだ。それ以上に負けた彼が私を認めてくれ、真の友人となったことが嬉しかった。その彼が「おまえは、レスリングでは俺に勝ったけど、ソビエトにはもの凄い格闘技があるぞ」と教えてくれたのが、コマンド・サンボだった。そのルールを聞いて私は背筋が凍えた。「殴っても、蹴っても、締めてもいい。相手が寝ていても関係ない。目潰しだけはだめなんだが」当時は金的もOKだったということだ。
二〇〇三年六月八日PRIDE26で藤田和之がヒョードルに対戦した。藤田が善戦。ヒョードルを追い込んだかに見えたが、背後からの裸締めで藤田がタップした。擦り抜けられるかなと思っていたが、ヒュードルはスリーパーホールドを仕掛けたのではなく、藤田の首を折りにいった。危険を察知した藤田が試合を諦めても仕方なかった。
二〇〇四年六月二十日、PRIDEグランプリの第二回戦。ヒョードルに対戦したランデルマンは裏投げを決めた。ひねりの利いた強烈な投げにヒョードルが落ちた!と多くは見ただろう。しかし、レスリングの裏投げは相手を肩から落とす。受身が取れるように投げる。コマンド・サンボの投げは首から落とす。敵を戦闘不能にするためだ。
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最強への挑戦を求め続けてそれがやっと実現する花道を歩くミルコを目で追いながら、なぜか目頭が熱くなった。四年に一度しかないチャンスにかけるオリンピックレスラーだった自分の姿と重なったのかも知れない。
世紀の一戦は判定でヒョードルが勝利した。敵を葬るための技術を磨きぬいた格闘家の戦略的な攻撃に絶対に負けまいと踏ん張ったミルコ。闘いを終えたヒョードルは言った。「面白かった。戦うに値する選手だった」この両者の戦いはスポーツ的な終わりを迎えたといってもいいだろう。闘った相手を認め合う時間が訪れた。スポーツが代理戦争を超えて、「平和のツール」となるヒントが見えた。
花道を去るミルコの後姿に、コマンド・サンボがスポーツに昇華するかもしれない一筋の流れを私は感じていた