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 大相撲では、モンゴル勢を筆頭に海外から日本の土俵にやってきた力士たちの活躍が目立っている。朝青龍、琴欧州の奮闘ぶりは言わずもがな、昨年末の登録で、幕下も含めると12カ国から総勢59名が「参戦」している。その大半を占めるのがモンゴルで、総勢34名の内、幕内力士が7名もいる。

 日本人横綱が不在の大相撲の状況を憂う声も一部からは聞こえる。だが、モンゴルから見れば地の果てにある土俵というリングに彼らは夢を抱き、遥々やってくる。厳格な規律と猛烈な訓練を耐え、頭角を現してくるその姿勢は正真正銘の「相撲取り」であり、日本の伝統文化を担う名誉日本人として考えるべきだろう。これからますます大相撲に格闘技の逸材が集まる未来に私はむしろ明るさを感じている。

 相撲は日本古来の神事であり、その聖なる土俵には女性も上がることが許されない。そのような場所に異邦人を上げることへの不快感も憂国の深層にはあるのかもしれない。しかし、実は格闘技の源流を辿れば、神との関わりなくして世界の相撲も生まれなかったことがわかる。

 7月11日。モンゴルの革命記念日に当たるこの日、首都ウランバートルでは夏の祭典・ナーダムが開催される。ナーダムは弓、馬、そしてモンゴル相撲(ブフ)の3つの競技を行う。この伝統的なスポーツの祭典は、あのジンギスカーンが兵士の戦闘力適性を見極めるために始めたとの説もある。

 横綱・朝青龍の格闘の背景には「ナーダム」の舞台となる広大な大地が開けている。

 モンゴルからやってきて初めて幕内力士となった旭鷲山もブフの力士だった。実際、五輪に出場してくる柔道家やレスラーは皆、ブフの覇者である。

 その一人、モンゴルの勇者バトルフォーと私が闘ったのは、1982年インドはニューデリーのアジア大会。闘いの後、彼と一献を共にした私の眼前で、突然彼が酒に指を付け、上、中、下に酒を弾いた。もったいないなあ。と思っている私に、「太田さん、これがモンゴルの相撲だよ。我々は闘いを神に捧げているのだ」と言うのだった。

 ブフでは闘う前に必ず酒を指につけ「天の神、地の神、水の神」とそれぞれの方向にはじく儀式をしなければならない。自分の闘いが神に捧げられたものだなどと考えたこともない私に酒席は感動深いものになった。

 この大会は恐らく近代スポーツ大会始まって以来はじめての野外スタジアムで行われたものだった。大インド砂漠に沈む夕日を背に受けて広いサッカー場に置かれたマットの上での激闘を想起し、まさに神妙な思いに包まれた。

 昨年の暮れ、初の女性横綱審議委員である内館牧子氏に会ったとき、興味深い話を聞いた。大きな男と格闘技が大好きな彼女とは年に一度必ず会うことになっている。土俵の成り立ちについて、曰く「四つの柱を立て、紐で結ぶとその場に神が降りてくる。そこに円を描いたのが土俵」。

 彼女は、東北大学大学院で相撲の歴史を研究している。思えば、2004年のアテネ五輪で、オリンピア遺跡を訪れたとき、その格闘議場(パレイストラ)の隣にゼウス神殿が聳え立っていた。パンクラチオンを闘った選手たちも自らの闘いを神に捧げていたのではないだろうか。 パンクラチオンはレスリングの源流であり、琴欧州を筆頭とするスラブ勢の土俵の背景でもある。

 世界各地に存在する相撲の源流を探れば、そこに神と人の対話が見える。ただどちらが強いかを決するだけでなく、その結果が神に捧げられていたのだ。

 四つの柱は聖地を囲い、その地に描かれる円に降臨する神と共に闘う選ばれた者たちの集い。大相撲は古代の相撲の原点を現在に顕現させている。

 その地に、世界各地から格闘を求めて「力士」がやってくるのは、とても理に適い、とても自然な動きなのではないだろうか。大相撲の未来に希望を抱く所以である

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