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3月15日、武道館で行われたHERO’Sで、石澤常光が秋山成勲に敗れた。石澤のアマレス時代を共に生きた一人として、聊かの悔恨がある。もっと鍛えればよかった。否、鍛えなければ、父親の後継として、村長になっていたかもしれない。石澤が早稲田大学レスリング部に入部してきたのは、ソウル五輪の前年、
1987年のことで、私はコーチとして彼を迎え入れた。レスリングの名門、光星学院高校からやってきたとは思えない優しそうで華奢な男だったが、82kg級を目指して頑張るという健気な練習振りに好感を持った。石澤の指導をする内に、私自身も現役復帰の希望を持つようになったほどだ。ソウル五輪の銀メダルは石澤のおかげかもしれない。次第に身体も大きくなり、日々のスパーリングにも手応えを感じられるようになった。石澤の生まれたのは青森県常盤村。村長の四男。末っ子だったこともあり、相当に大事育てられた。危ないことは勿論、スポーツもしなかった良家の子息が、突然、名門高校レスリング部に入門したのは、ただ、ただ「プロレスラー」になる夢を実現するためだった。インターハイ全国優勝常連のレスリング部はその練習の厳しさでも有名だった。何しろ、コーチは「日本根性会」なる恐ろしい団体を作った男。朝から晩まで練習漬けで、精神注入棒である木刀の音が鳴り止まない。でっかい日の丸を持ち、全員で軍歌を合唱しながら走る。最後には必ず君が代。その凄い団体にありながら、青森にプロレス興行が来ると、決まって石澤は消えた。プロレス観戦のために!さすがの鬼コーチも容認するしかないほどのプロレス好きだった。
大学レスリングの先にも、プロレスのリングがあった。「五輪代表になって、プロレス入りを果たす」それがいつしか石澤の暗黙の道標となっていた。ソウル五輪が終わり、次のバルセロナ五輪まで、彼の成長ぶりには目を見張った。私はレスラー石澤を鍛え続けた。名門高校から大学レスリング部にやってきた多くの有望選手が、「燃え尽き」症候群に沈んでいく中、
’88、’89、’90と三年連続で学生チャンピオンとなった。それも目指してきた82kg級で。’90には、全日本チャンピオンにも輝いている。この成長がまた私に五輪への挑戦を奮い立たせ、二人でバルセロナ五輪出場に挑んだ。 ‘91には私が短期留学していた米国オクラホマにまで石澤はやってきて、丸一ヶ月、家族の一員として過ごし、練習に励んだ。しかし、
’92の五輪選考会を兼ねた全日本選手権で石澤は敗れた。私は辛うじて90kg級のチャンプとなり五輪出場を果したが、ショックは大きかった。私にとっては石澤との五輪出場を逃した落胆だったが、石澤にとって、それは、プロレスへの道を閉ざされた嘆きであった。彼はプロレスに行くには五輪代表にならなければならないと本気で思っていたのである。私はその後の石澤を遠くから見守るしかなかった。迷いながらも新日本プロレスの門を叩いた彼に先輩レスラーは「迷っていてプロのレスラーにはなれん!」と平手を放った。以来、石澤はプロレスを研鑽し、ケンドー・カシンを築いた。私のレスリングの延長線上にプロレスはなかったが、石澤の目指すものは、幼き頃に憧れたプロレスラーであったことを思い知った。日本のプロレスの源流といえば、力道山が築いたプロレスである。米国人レスラーを手刀一本で仕留める力道山は、敗戦に消沈する日本人に、熱狂的に受け入れられた。一方で観客は柔道王、木村正彦との日本一決定戦も求めた。強さを見せるエンタテイメントと強さを競うリアルファイト。この二律背反が既に日本プロレスの源流に存在していたのである。
敗戦の夜、石澤は私に言った。「突然の試合でしたから、準備不足は仕方がない。総合でもプロレスでも声がかかれば闘うだけです」現在の観客は、石澤とケンドー・カシンの共存を楽しむほど成長しているのだろう。それに応えようとしている石澤の素顔と覆面の闘いに「プロレス」の源流を教えられた。