木村和司の有終の美 〜サッカーがくれた友だち〜

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木村和司の有終の美
〜サッカーがくれた友だち〜

12月11日の2025Jリーグアウォーズは私にとって特別だった。今まで一度も見たことがなかったが、今回は横浜アリーナに飛んで行きたいくらいだった。木村和司が賞を受けると側聞したからだ。聞いたのが当の前日ではどうしようもない。YouTubeのストリーミングで見ることにした。

木村和司とは不思議な縁で家族ぐるみの付き合いを続けてきた。彼が奥方と設立した有限会社シュートは和司の活動を続ける基盤であった。一方、私が妻と設立した有限会社ゲンキなアトリエは長崎宏子の活動母体であった。互いに知的障害者のためのスポーツ団体を支援する中で和司の代理であった奥方と長崎の代理であった私が知己となり、色々なイベントに協力し合った。

サッカーは私にとって人生の目標であった。中学一年の時、将来はサッカー選手か哲学者と決めた。その道を大学まで歩み続けたが、いざ社会に出るとなるとその両者とも糧にはならなかった。今であればJリーガーという道はあっただろうし、大学での研究生活もあり得ただろうが、後者は真の哲学者は社会に出て世の中という教科書から学ぶのが本当だと意固地になった。

日本オリンピック委員会(JOC)という働き場を得て、私は二兎を追う者二兎を得る状態となった。サッカー選手でありつつ、オリンピズムという哲学を実践できたからだ。そしてJOCの修行から卒業し、スポーツ思考を唱え、哲学するスポーツを求める日々を得たのである。

木村和司との出会いは私のサッカーへの情熱が間違っていなかったことを教えてくれた。互いにサッカーを見る目を感じたのだった。自分のサッカーが受け入れられなければいくら積まれても動かぬ和司が、私の低予算の仕事を引き受けてくれたことが多々あった。あるスポーツ大学のサッカーコーチングで試合を一緒に見ていた時、「今のいいけど、あそこでもう一回フェイントを入れればな」と私がふと仄めかした時、和司が鋭い目で私を見つめた。あの時、同じサッカーを求めていることが分かった。

木村和司 春日良一

ボールを曲げて蹴るのは今では極々当たり前だが、私が高校の頃は特別な技術だった。高二でフリーキックやコーナーキックを曲げて蹴ることを覚えた私は、面白いように得点を重ねた。以来、カーブは私の特技と思っていた。

それから10年以上経った1985年10月26日の国立競技場。メキシコW杯予選の日韓戦。2点のリードを許した前半終了間際のフリーキック。和司がボールを置いた時、私は決めると思った。左四十五度の角度、ゴールまで20メートル。間違いなく曲げてくるだろう。そして伝説のフリーキックが生まれた。私は自分の果たせなかった夢を和司に託していたのかも知れない。

和司が引退後、直ぐにS級ライセンス取得に乗り出し、自分より数段「下手くそ」なサッカー人に混じってトレーニングする姿に違和感があった。しかし、監督になるためにミスターマリノスは平気でプライドを捨てた。

S級をとっても、しかしなかなか監督の話は回ってこなかった。やっと2010年に古巣横山マリノスの監督に就任する。この時は年末恒例の和司主催パーティーに家族で応援に駆けつけた。冬の試合の監督は寒いだろうと「あったかいマフラー」をプレゼントした。これをずっとつけていれば優勝したのになあとは勝手な思い込みではある。

2シーズン目は優勝争いに食い込む活躍だったが、最終的にJリーグ5位となり、退任に追い込まれた。横浜マリノスが最後に優勝した2004年以降では最高の成績であったにも関わらず。横浜マリノスの非情を私は呪った。

その後、解説業に戻りつつ、東大本郷のグランドを使った大人のサッカー教室なども頑張って、和司のサッカー人生は快適に思えた。焼酎が大好きで飲み出したらシャイな性格も忘れ饒舌だった。面白い話が飛び出す。

「フランスワールドカップの時の決勝のビデオ見てたんよ。全然解説が喋らんのよ。そしたらワシが解説だった」(爆)

和司の解説は直感的でサッカーをやっていた人間にはなんとも言えぬ味があるのだ。

2015年1月のゴルフコンペで調子がおかしくて入院。脳梗塞だった。2ヶ月の入院からリハビリを頑張った。そこはトップアスリートである。なんとか歩けるまでになった。奥方の献身的介護が大きかったと思う。メディアでもこの感動的ストーリーが取り上げられた。

同じ時期、私の友人であるレスリング銀メダリストの太田章も脳梗塞で倒れたと連絡があった。(太田章のストーリーは今月23日発売のフラッシュに掲載されました

2年前、シュート主催の忘年会が久々に開かれて、私も出席したが、その時の和司は座ったままだったが元気であった。ラモスも駆けつけてきていて懐かしい話ができた。ラモスとはサラエボ募金からの付き合いだった。彼のヒューマニズムは本物だ。

あの会合からしばらく連絡が途絶えていた。

今年の秋ごろだったか、久しぶりに奥方に連絡したら、「今、退院してきたところなの」と言うではないか?驚いた。聞けば今年になってまた倒れたと言うのである。「短期記憶もなくて」

今回は覚悟した。

そんな気持ちでいたらJリーグアウォーズの知らせである。娘のミュージカル公演を見にきてくれた奥方にお礼をと思って電話したら、「和司、ちゃんとしていますよ」と。

YouTubeライブで映し出された和司の瞳は優しかった。和司の車椅子を押すラモスの優しさがそれを包んだ。かつてのライバルは揃ってチェアマン特別賞を受けた。

喋るのが難しい和司に変わって、ラモスが「ピッチでは天才だけど、ピッチから離れるとシャイでどうしようもない」とフォローし、1993年のJリーグ開幕戦で和司のマリノスにラモスのヴェルディが負けた時の話をした。その時、和司は「6万人の前で試合できたんだからいいじゃん」と言ってラモスにとっても歴史的な日を歴史的にした。そのことを和司は「覚えている」とラモスに笑いながら言った。

ボールは丸い。
勝敗を求めてしのぎを削るが、どちらにも転がる。
サッカーは本当の友をくれる。
そう信じた。

(敬称略)

2025年12月28日

明日香 羊
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編集好奇
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2002日韓共催ワールドカップ前夜、トルシエ采配を巡って、和司とラモスの対談を何度か仕掛けた。反響は大きかったが、二人が推してやまなかった俊輔は代表から落ちた。悔しかった。その俊輔も一昨年末の和司の忘年会に来ていた。和司とラモスが憧れであったと語っていた。和司のパスを俊輔が代表監督としてトラップする時を期待する。

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創作大賞2025(note)に五作品をお読みください。
https://note.com/olympism/n/nc64126028a80
古希の旅 琴平慕情 初の小説的紀行文 必見!
https://note.com/olympism/n/n935d8b2c4f3d
橋本聖子が新会長 JOCにいま何が?(日刊ゲンダイ) 春日にしか書けない深層
https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/5337

「2024パリ大会 徹底、実践五輪批判」日刊ゲンダイ連載、全18話
https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/4728/495

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