墨子とオリンピズム 〜私の半生とともに〜

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墨子とオリンピズム
〜私の半生とともに〜

現世の状況はまさに危機的と言えないだろうか?「誠にこの世に正しき者なし」である。トランプは嘯いてばかりで、新世界をリードする使命を得た者ではないことが明らかになっている。にもかかわらず、世界はトランプ思考を脱することができないでいる。

私は今こそ古代の思想家、墨子を復活させたいと思うに到った。

このスポーツ思考で彼の思想と実践を綴ってみようと思う。

偶然にも先ほどのこと、今から32年も前に私が日本オリンピック委員会の仕事の傍に書いた一文が見つかった。墨子とオリンピズムについて書いたものだ。まずはその復刻から始めよう。

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墨子の思想には大学生当時からインスピレーションを感じていた。彼のあるいは彼ら墨家の行動が言行一致であり、積極的活動をする思想家という形にも大いに魅力を感じていた。哲学は実践的でなければならないという考えを持っていた私にとって墨子は理想に近い人間だった。

イエス・クリストには到達できるわけはないが、墨子であればなんとかなるかも知れんという気持ちがあった。墨子の思想は非戦非攻であり批孔であったはずだ。戦争反対論、そして儒教批判だ。日本体育協会に就職したのは非営利団体だったからで、終業の5時30分以降に哲学の勉強ができればいいや程度のことだった。大学には未練があったけど、大学院は哲学にとって学の墓場としか思えなかった。

仕事は適当にしていくつもりだったのだが、いつしかどっぷり浸かってしまい、国際関係の仕事をしていると生き生きしてくる思いがあった。

そのうちにオリンピック運動というのは凄い哲学じゃないかと思い始めた。なぜかといえば、スポーツを通じて世界を平和にしてしまおうというような思想だからで、これはイメージとしてはスポーツへの感覚として、清潔、公平、さわやかといったもので湧いてくるが、世界平和の実現をスポーツがどうやって行うのか、究めて哲学的な問題と言わざるを得ないだろう。

それも抽象的な問題提起ではなくて、究めて哲学的な問題提起である。

墨子 2026-04-06 21

その観点から思考を深めて、スポーツ界をオリンピックなど中心に考察していくと、オリンピズムが本当に素晴らしい理念であることが分かってきた。政治だとか宗教だとか民族だとか国境だとか、現在の社会構造の前提となるような枠組みを全て飛び越えてしまって、スポーツなどと遊びみたいなもので、政治も経済もそして宗教でも実現できなかった世界平和を実現しようというのは、一体どういうことだろうか?

このテーマをライフワークとしようとした瞬間、それを実践しているのが誰かという思いに到った。するとそれが選手だ、トップアスリートだということになった。

なぜかというと、彼らが鍛えに鍛えて我々に見せる技は、人間の限界を示すからだ。体を持っている人間という限界を極限状況まで追い詰めた姿を表現するからだ。するとそういう人間を支援していくということを中心にコミュニティができると政治も経済も宗教もそれに奉仕するものとなる。

政治や経済は民衆のためにあるのだが、スポーツは平和のためにある。そして、政治がスポーツのためにあるということなると、それは選手のためにあり、そして選手が表現する「人間の限界」のためにあり、そしてその結果、争う必要のない社会が来るということになる。

経済のジレンマが何かと言えば、貧しいものと豊かなものとがいることだが、これは実は民族のため、国家のためという幻想のための産物にすぎないと見える。もし、この座標軸を転換して、スポーツのために経済があるとすると、選手のためにあるということに帰結し、その選手が平和を表現するために鍛えるのであるから、みんなが選手を経済的に応援することが経済活動になって、結果、平和を志向していることになってしまう。

宗教はこの世を超えたところからの話であるから、スポーツに奉仕することは構造上無理だけれど、現実の宗教体制が世俗の権威になるのはよくある話だから、これもスポーツを支援する中で、平和を志向している宗教であることを表現できることになり、そうすると宗教戦争などという自己矛盾を興すこともなくなるわけだ。

スポーツを全ての中心に置くと世の中の価値体系が転換して平和の周りをぐるぐる回るということになる。そして、いつも体という限界装置を抱えているために、その活動は極力ストイックなものになっていく。

芸術は美を求める活動だが、それは天才と美との対話であり、個人と美の対話にはなり得るが、社会構造を変革するようなパワーにはなり得ない。スポーツも天才と結果との対話だが、そのゴールへの過程は不断の一瞬であり、美でもあり、しかし真実であり、民衆を巻き込む力となる。そのゴールのはてには世界平和という社会改革があるとすれば、このような存在は文化を超えた文化、あるいは超文化としてもいいくらいに思う。

戦わずして、戦いに勝つ。これがスポーツが平和を志向するやり方なのである。そして、この方法が墨子の攻めずして勝つという思想に相似するものであることは決して私にとって小さなことではないのである。

墨子の「非攻」である。

墨子の思想の中で、「非攻」とならび有名なのは「兼愛」である。これは還元すれば「自分を大切にしているように他人を大切にしろ」である。すれば戦いは起こらない。「非攻」になる。

スポーツは競うものであるから、「敵」が存在する。しかし、その戦いは「敵」を「敵」として敬うことで成立する戦いである。この戦いには死はなく、生があるだけなのだ。スポーツの戦争は初めから「敵」を大切にすることを前提にしている。だからこそスポーツはその戦いによって平和を象徴することができるのである。

墨家の士たちをアスリートとし、アスリートを墨子の思想を有した存在にまで高めることが、現在の平和実現運動の究めて現実的なあり方ではないだろうか?

少なくとも自分はそのための活動を始めたいと考えている。

(1995年1月 著)
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39歳の私の著述をそのまま載せた。青春を感じた(笑)。この年11月に私は戦火サラエボへ赴き、サラエボっ子のためのスポーツ大会実現の一歩を踏み出した。

当時は冷戦崩壊からの民族主義復興の流れの中での戦いであった。

経済第一主義が戦争の世界を一掃すると思われ、それが民主主義と共鳴する平和な社会を誰もが思い描き始めていた矢先の出来事に、私はスポーツで世界平和というテーゼを突きつけてきた。

権威主義的民主主義と民主主義的権威主義が蔓延るカオスにも私はオリンピズムを突きつけたい。その実践論を墨子の思想から学ぶ。

次回から墨子の思想を紐解いていきたい。

(敬称略)

2026年4月5日

明日香 羊
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編集好奇
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トランプの学力は算数レベル。それに付き合う世界は愚かと思える。
「スパイ防止法を作る。国家情報局も作る。強い国を作る。そういう日本にする」と
言う人々は最強の米国がイランに勝てないでいる現状をどう見ているのか?
日本が「強く」なるとはどう言うことか?トランプの算数では解けない。
本当の「強さ」は憲法第9条にあり、オリンピズムにある。
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「新・実践五輪批判」連載完結!
https://www.nikkan-gendai.com/?p=news&column=5471
ミラノコルティナ冬季五輪を機に地政学的な視点にオリンピズムのプリズムを入れて世界を見るという哲学的挑戦をしております。どうぞご高覧ください。

YouTube Channel「春日良一の哲学するスポーツ」は下記から
https://www.youtube.com/@user-jx6qo6zm9f

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