1998年の開催立候補都市は強敵ぞろいだった。ソルトレークシティ、エステルスンド、ハカ、アオスタ。知名度なき極東アジアの長野が劣勢を跳ね返すことができたのはなぜか?
組織体制、招致活動予算、何をとっても長野が東京、大阪、名古屋に勝るものはなかった。しかし、これまで勝ったのは長野だけだ。この真実は何か?
長野五輪招致が劣勢のなか、堤義明JOC会長が辞任する。JOC若手改革派は絶望に沈んだ。だが、IOCの絶対権力者サマランチ会長を狙って、一人の男が動き出す。出遅れた五輪招致を逆転するには、この奇策をやり遂げるしかない・・・。長野五輪にはこの男がいた!
体協時代からの国際通として、五輪運動の哲学に共鳴、1989年JOC独立とともにJOCに移籍。国際スポーツネットワークを着実に築いてきた春日良一に、白羽の矢がたった。1990年IOC東京総会の後、総会の実務上の責任者であった彼に、JOCから長野五輪招致委員会への出向命令が下る。それは体協がお荷物の招致をなんとか形付けるためだった。しかし、彼は本気で長野五輪招致に取り組む決心をした。
中学一年生から哲学者とサッカー選手を目指した男が、選んだ職場が日本体育協会だった。(1978年就職)スポーツと語学が生かせる職場だったからだ。そこで出会ったオリンピズムが彼の生涯を決める。スポーツが哲学になる場をそこに見たからである。スポーツによる平和な社会の実現が実践できる場で、彼は動いた。そして、最初の仕事が日中国交正常化10周年であり、サマランチ会長初来日の受入であった。各国のスポーツ人、そしてIOC会長との出会いによって、彼はオリンピックの思想に関心をいだき、深く関わっていく。そして、長野五輪招致を通じてサマランチと深く関わることになるのだ!
JOC一職員の春日良一と国際機関のトップ、サマランチ会長が対等に向かい合えるのは、なぜか?それはオリンピズムの信者であるからだ。大企業の社長と町工場の職工がカソリックの教会では同じ信徒で平等であるのと同じである。哲学者として、世界の宗教も学んできた春日にとって、サマランチもIOCもとても親しみやすい世界であった。そこではどんな貴族とも対等に話し合える世界があった。
華やかなだけの「招致キャンペーン」の裏で極秘ミッションが遂行された。
JOCが世界と対等に渡り合うことを認めさせる。IOCのオリンピック運動推進にJOCがなくてはならない存在になる。その手段として選んだ
五輪マフィア、IOC委員との暗闘の全てが明らかにされた。
五輪招致というお荷物を抱えて五輪運動を信ずるが故に、このミッションに取り組んだ男がいた。JOC職員のプライドをかけ、自ら体協、JOCの職務の中で築き上げた国際的ネットワークを再構築し、IOCの巨頭に挑んだ渉外録。
そのことをきちんと訴えているのか?訴えていると思っているのかもしれないが、それは東京が五輪主義に従順であることを示すほどのものであるのか?シドニーも北京もそしてリオもそれをしているのだ。東京はそこを見据えていますか?
春日良一がその命をかけて取り組んだ招致活動について、光文社週刊フラッシュが異例の集中連載で報じてくれました。しかし東京が勝つためにはそれだけでは足りない。五輪招致の機微を、取り上げられた告白録の底本となった五輪渉外録(原稿用紙100枚)。
その意味をこの書で会得できます。
*原稿用紙400字100枚の五輪渉外録
公開中です。
周辺取材では分からないIOCの核からの告白。
なぜ春日良一は得票数を掴んでいたのか?
すべてが明らかになる。