第七話 JOCの存在意義

NHK大河ドラマ「いだてん~オリムピック噺~」は第二部に入ってしまった。主人公は金栗四三から田畑政治に移った。一話一話批判していこうと思っていたが、大河の流れの速さについていけない。さすがに金栗はマラソン世界記録樹立者だ。などと言い訳にもならないが、それぞれの話に五輪運動の胆が散りばめられており、それをどこで批判しようかと喘いでいたのが正直なところ。既に第25回となったからには、最も大事な論点であるところの、体協とは何か?について論じたい。

宮藤官九郎が凄いと思うのは、一貫してスポーツが政治に対して戦うファイティングスピリットを軸にしているところだ。役所の治五郎は強烈に、戦禍に喘ぎ、被災に喘いでいる時こそ「スポーツは力になる」と言い切る。その姿勢は、本来オリンピックが求めている者であり、クーベルタンの思想を後押しするものだ。

一方で、スポーツが普及しその存在意義が増してくると、それぞれの競技が自らの団体を結成してくる。そもそも嘉納はクーベルタンの呼びかけに応じ第5回オリンピック競技大会(ストックホルム)に日本の参加を決心するが、そのためにはその選手団を派遣する母体である国内オリンピック委員会(NOC)の存在がなければならない。五輪運動では政治から支配されないNOCが選手を選び、選手を派遣する唯一の権威である。このNOCを作るために嘉納は大日本体育協会を創ったのである。つまり体協とJOCは本質的に同一の組織だということである。

最近、メディアがスポーツ界の不祥事を取り上げて、それを放置しているJOCの存在意義を問うているが、その姿勢こそオリンピズムから見れば批判されるべき対象である。なぜなら、JOCの存在意義は五輪運動普及の意義であり、オリンピック競技大会に参加できる唯一の権威であるからだ。この存在の意義を問うということは五輪自身の存在意義を問うことであり、平和な世界の構築への疑問を丸投げしているに過ぎないことになる。

一方で、それぞれの競技の統括団体に自律を求めるのもオリンピック運動の重要な構造である。それぞれの競技についてNOC領域内で責任を持つ団体があって、初めてスポーツの自律が成立する。

大河第25回では日本水泳連盟を田畑政治が作り、日本陸上競技連盟の向こうを張るという展開を描くが、実際には、嘉納が大日本体育協会を創設した直後から「我こそは日本のスポーツを統括する団体である!」「我こそはオリンピックに参加するものである!」と名乗る多くの組織や個人が現れた。スポーツ界はある意味カオス状態にあった。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)が承認したNOCのみがオリンピックに参加する資格を有するのであり、それは大日本体育協会=JOCでしかなかった。招待状がドラマでは水連に届いているが、それが届くのはJOCでしかない。

ではJOCとは何か?それはまさに「スポーツで世界に平和をもたらす」とするオリンピズムを信じ、オリンピック競技大会において人類の頂点を目指すために平和でクリーンな戦いを繰り広げるアスリートを育て参加させるために不断の努力をする権威である。

故に、JOCの存在意義を問い、日本スポーツ協会に統合して、その頂点を政治家の天下り先にし、日本のスポーツを支配し、甘い汁を吸おうとする現在行われている企みに対抗できるのは、ひたすらオリンピズムへの信仰とそれを本気で実践するJOCでしかない。

そのことがスポーツ自身に自らの自己実現の道を見出し、その鍛錬と努力の果てに世界の頂点に辿り着く金栗四三のようなアスリートを守る唯一の方法であることを、役所の嘉納治五郎は強烈に演じ切っているのだ。関東大震災直後にパリオリンピック選手団派遣を表明する嘉納の「こんな時だからこそスポーツの力が必要なんだよ!」は、1995年戦火のサラエボに赴き「サラエボっ子スポーツフェスト」を慣行しようとした私のオリンピズムと同じものだ。

第25回の終わりに、高橋是清(大蔵大臣)が登場した。今はなきショーケンの演ずる是清は相当な迫力であった。パリ五輪日本代表選手団のための補助金を田畑政治が直談判するシーンで次回は始まるだろう。宮藤官九郎は田畑に正に政治的役割を演じさせるつもりと見る。嘉納治五郎の純粋五輪運動に対して、政治を巻き込んでいく実践五輪運動への展開が楽しみでもある。もちろん批判的に凝視するが。

いずれにしろ、JOCが堂々と自らの権威を主張するためにも、「いだてん」は快走し続けなければならない。

純粋五輪批判第七話了

春日良一