その1 序章

私は社会学者でも歴史家でもない。スポーツ団体で17年間、アマチュスポーツの総本山と言われた日本体育協会(体協)と日本オリンピック委員会(JOC)で実務を行なってきたものに過ぎない。そのようなものが、スポーツの本質、あるいはスポーツ思想について語るのは、いささか暴挙の気がする。しかし、私は実務の中で、スポーツフォアオール(みんなのためのスポーツ普及運動)とオリンピックムーブメント(オリンピック理念の普及と実践)に携わり、様々な世界のスポーツ関係者と出会い共同作業を営む機会に恵まれた。その中で出会った一つの思想には特に心を奪われ、その実践に事務局として励んできた中で、現実の世界でこの思想が正しく伝えられていないという感じを抱くようになった。

それはスポーツとは何か?という問題でもあった。建前ではオリンピズム に基づいてスポーツ振興を続けていかなければならないとしても、本音ではその思想の現実化には無頓着に事業を継続していくスポーツ団体のあり方に常に疑問を持っていたからである。学問的に取り組むだけでは見えてこないスポーツの本質に関わる現実があり、単純にスポーツに親しむ中で生まれる喜びが現実の社会にどのように関わっていくべきなのかという主題が欠落している現状への不満でもあった。

また、マスメディアがスポーツを取り上げるときどこか表面的になり、ステロタイプな描き方があり、結果からしかスポーツが表現できないという現実があった。その競技に命をかける選手たちの内面に踏み込むには多大な時間が必要だろうが、スポーツを本質的に見る目があれば、もっと多くの人々が選手となり、その中から秀逸なエネルギーが見出され、社会に良きことをもたらすことができるのではないか?

私が出会った思想というのは、オリンピック理念とか、オリンピック精神と言われているもので、オリンピズム という一つの哲学である。

私はこの思想の実現化のため、1995年5月にJOCを退職し、スポーツコンサルティング会社「ゲンキなアトリエ」を作り、代表となった。体協時代、JOC時代、そしてゲンキなアトリエを通して私の中に培われた一つの信条を「私のオリンピズム」 として残したいと思う。真理とは何か?を求めて哲学を学び、一方でサッカーというスポーツで身を立てようとしてきた男の信ずるオリンピズム とは何か?そしてスポーツとは何か?私なりに綴りたい。

第十七話 いだてんロス

終わってしまった。

NHK大河ドラマ「いだてん」は12月15日に最終回を迎えた。全47回。純粋五輪批判はあっという間に置いてきぼりだ。私の時間感覚といだてんのスピード感はかなり違うものであった。年の瀬も押し詰まり日々人々が呟く「時の進むのが早い」というのが現実として感じられるところだ。

視聴率のあまりの低さに嘆息の向きもあったが、終わるとなると「いだてん」恋しの声を仄聞する。実際、録画して自分のスピードで見ていた人は多かったようだ。

最終回は1964年東京オリンピックの開会式当日の緊迫感を以て始まった。前日までの大雨が噓のように晴れ上がった快晴の東京。広島原爆投下の日に誕生した坂井義則が聖火台に続く階段を駆け上がる。向かって左側に立ち一旦観客席を見渡して、聖火を高々と掲げ、左に向き、聖火を点火するのであった。

日本通運が全国各地から陸送した鳩一万羽が放たれた上空に自衛隊のブルーインパルスが描く五色の輪はオリンピックシンボルを見事に表彰した。史上初の成功であり、以降これまでにも試みられたことはない。

一年前のリハーサル映像では三つめの輪がからまず五輪にならなかった。坂井の聖火も観客席をふりかえることなくそのまま点火されている。

開催準備の努力を見る演出だ。

いだてん金栗四三はドラマでは最終ランナーに嘉納治五郎から請われていたことを理由に坂井の最終ランナーに絡んでくるが、演出である。演出であるが素晴らしいストーリーになっているのではないか?昭和39年の東京五輪以降、日本のスポーツは躍進的な発展を遂げるが、スポーツ界の上層部の新旧交代が遅れ、その結果、低迷に続くことになる。昭和55年のモスクワ五輪ボイコット、1988年ソウル五輪の惨敗。それから平成元年の日本オリンピック委員会の体協からの独立へ進む。全ては世代交代の遅れである。

ドラマは金栗から坂井に聖火が受け継がれたことを示していた。

スポーツ界にとっての大きなメッセージと言っても過言ではない。最近頻発している競技団体の様々な問題もこの一点にある。平成元年の改革以降の新旧交代の失敗である。

ドラマのもう一つの軸。志ん生の落語。富久。主人公が走り回る落語。その区間の定番は浅草と日本橋だが、志ん生のは、浅草から芝まで伸びる。伸びる理由は、そこに唯一といっていい架空の人物、弟子の「五輪」が登場するのである。ドラマではこの家系がすべて創作上の人物で構成される。五輪にとっての祖母は五輪に日本人として初めて参加したもう一人の選手、三島弥彦の家に使える女中から、スポーツに目覚めて女子スポーツ黎明に臨むシマ。関東大震災でなくなるが娘が結婚する相手が金栗四三の弟子となる小松勝である。箱根駅伝の覇者として、オリンピック出場を目指しているが、戦争のため学徒出陣、満洲で志ん生の富久に距離が短いと談判した。そして、スッ スッハ ッ ハ ッの呼吸法など走法も伝授。その後、絵葉書に「志ん生の富久は絶品」とのメッセージを書き投函する。が、その後ソ連軍に射殺される。成人した「五輪」は志ん生に弟子入りして自らのルーツを探る。

最終回で「五輪」は最終聖火ランナーへ渡すランナー群に入り、その後そこから芝で高座を終えた志ん生に出入りを許される。富久の文脈で世代交代が象徴されていると思える。

各国選手団入り乱れた閉会式は語り草だが、ドラマもそこにクライマックスを置いている。そして、閉会式を終えた田畑政治に嘉納治五郎の声がする。「田畑ありがとう」そして、そこに無事閉会を報告する「いわちん」に田畑が「いわちんありがとう」

理想的な世代交代を示していた。

NHK大河ドラマ「いだてん」は終わったが、純粋五輪批判ではドラマが提示した課題をオリンピズムから解いていきたいと思う。

純粋五輪批判第17話了

春日良一