第三話 訓練と自由

先日、あるインターネット番組に出演した時、「NHK大河ドラマいだてん(韋駄天)を褒める人に初めて出会った」とのお褒め?のお言葉をいただいたが、実際、NHKの方からも視聴率が上がらないとの嘆息もあったので自分が珍しい方の人間であることを再認識した。

しかし、表現のお道化や可笑しさの裏に潜むオリンピックの捉え方に注目すれば、「いだてん」は間違っていない。いないどころかかなり真摯に捉えていると私は感覚的に思っている。実際、体協職員という現場や五輪代表選手団の裏方本部、そして熾烈な五輪招致合戦といった形でオリンピック運動に携わってきた者にとって、「いだてん」は違和感がない。それが面白く演出されているので楽しめるという次第。

既にテレビは第十回を終えたが、初回から問題提起されている当時の日本のスポーツ事情を「いだてん」は「訓練と自由」という観点から追求しているようだ。そしてこれはある意味、日本のスポーツ界の今をも警鐘する鋭い突っ込みである。

昨年、特にクローズアップされた日本スポーツ界のパワーハラスメント問題は、スポーツが個人の「自由」に基づくものでありながら、トレーニングや試合の過程で、監督コーチと選手の上下関係が派生し、スポーツが何かの「訓練」に転化する現象だった。

文明開化と共に外国人教師などによって日本にスポーツが持ち込まれて、それをどのように日本が受け入れたか?というところに問題の発端がある。永井道明が欧州歴訪の後、日本人の体位向上を目指して導入したのが、スウェーデン体操であった。そしてその体操の一つの道具が肋木であった。大河ではその肋木に体位向上のための「訓練」を象徴させている。

永井が薦める肋木を行う可児徳(高等師範学校助教授)に嘉納治五郎が「楽しいか?」と聞く場面があるが、それは「訓練」だけの身体運動では、楽しさが伴わないから、広まらない。日本人の体位向上には毎日体を動かすことを好んで行うモチベーションあるものが必要だという嘉納の考えを端的に表すシーンであった。実際、嘉納は学校で行われている体操が良法であるが、興味がわかないので、義務として行うが生涯続けられない。面白さのあるものが求められるとしている。

そして今でいうジョギング、ウォーキング、スイミングを薦めている。

まさに楽しさを求めて自ら体を動かすようにならないと本来のスポーツ振興とは言えないということである。つきつめれば、それが「自由」であり、まさに日常からの解放を実感できるスポーツということになるだろう。番組では天狗倶楽部を登場させて、楽しむためだけにスポーツを行うバンカラな青年たちにその「自由」を表現させている。

しかし、ただただ楽しんでいるのがスポーツではない。そこに「戦う」という要素が入り、競う、倒す、勝つという相手を克服する運動が入る。それがまた楽しさを生む。ただ走るのが好きで毎日ランニングを欠かさない金栗四三が一番になるためにトレーニングを始めれば、そこからスポーツはただの遊びではなくなる。

そして、世界の若人が集まるオリンピックはまさにその戦いの頂点である。スポーツの「自由」は至高の戦いの場に参加する意志を育て、そこで勝利を求める若人に「訓練」を課す。その「訓練」は若人が「自由」によって選んだものである。だからこそ、実を結ぶのである。

故に「より速く、より高く、より強く」がオリンピックモットーである。

嘉納治五郎が「体育」に求めていたものが、「自由」からの「訓練」であれば、彼の「体育」と「スポーツ」には隔たりはなかったと言えるだろう。

純粋五輪批判第三話「自由と訓練」了

春日良一

第二話 スポーツと体育

大河ドラマ「韋駄天」では東京師範学校の恐くて厳格な寮長である永井道明が登場し、嘉納治五郎の進めるオリンピック参加に時期尚早と批判する役目を負っている。スウェーデン体操を日本に広め集団体操の礎を築いた人として、彼に「体育」の理念を背おわせ、方や嘉納治五郎には「スポーツ」を主張させるという演出である。

しかし実はこの体育とスポーツの対立的思弁は今日的な観点と言える。1964年の東京オリンピックの開催を記念して、10月10日の開会式は「体育の日」と定められ、日本国民のスポーツへの関心の促進と健康生活への寄与が期待された。この時、体育とスポーツは分離した概念ではなく一つのものとして自然に考えられていたと言える。体育の日の制定根拠に「スポーツを楽しむこと」が入っているのを素直に考えれば両者を敢えて分けて捉える必要がなかったのである。

同様に明治初期、日本にスポーツが入ってくる段階で、身体運動を体育と訳したのはphysical education、直訳すれば身体教育のことであり、体育はその略称だ。同じく身体活動を伴うスポーツがそこに「言葉として」表現されていても不思議ではない。この問題は私が日本体育協会国際部ならびに日本オリンピック委員会国際業務部参事として「スポーツの翻訳語」を研究して、諸先輩が継承してきた適切な専門用語の翻訳を受け継ぎ、発展させた時にぶち当たった問題でもある。

なぜ日本体育協会をJapan Amateur Sports Associatonと訳したのか?なぜ国民体育大会をNational Sports Festivalと訳したのか?そこには実は体育という言葉にスポーツの理念も包含させる意味があったからである。

昨年から日本体育協会は日本スポーツ協会に変わった。そして 2020年から「体育の日」は「スポーツの日」と変わるそうだ。それをあたかも日本のスポーツ界の進歩のように思い込んでいるスポーツ関係者やスポーツ評論家にはうんざりする。彼らは体育が背負っていたスポーツの理念を全く無視しているからだ。

彼らにはスポーツというカタカナ語がSportの翻訳だと思い込んでいる無知がある。Sportというのは一つの競技を表す場合もあるが、実は身体運動が求める理念を示す言葉でもあるのだ。故にSportとSportsは相違する。Sportsをスポーツと訳し、それをスポーツが持つべき理念であるというのは無知である。Sportsはただの競技である、Sportは理念である。本当にスポーツ界を進歩させたいというならスポートという新たな翻訳語を提言する他はない。

これから大河ドラマ「韋駄天」では、永井道明に体育を背負わせ、嘉納治五郎のスポーツと対比させるのであろうが、その根本には上記の歴史的誤解がある。

純粋五輪批判第二話「スポーツと体育」了

春日良一

第一話 オリンピズムの根本原理

NHK大河ドラマの韋駄天は既に第4話まで進行しているが、第一話にオリンピズムの根幹がちりばめられていた。第一命題:オリンピックは平和の祭典 第二命題:スポーツと体育 第三命題:鍛錬と自由

これらを紐解く中に嘉納治五郎とピエール・ド・クーベルタンがつながるオリンピズムの根本原理が見えてくる。

第一命題:オリンピックは平和の祭典こそ、オリンピズムの根本原理である。
ドラマでは嘉納治五郎が駐日フランス大使に呼ばれて第5回オリンピック競技大会への参加を求められるというシーンで、ぺ!が連発される。フランス語で平和は La paix。スポーツという実態がまだ見えていない日本人にとってスポーツ自身を理解することが難しい状況で、それがペ!に結びつくなどということは空前絶後の大スペクタクルであったはずだ。このスポーツと平和という相反するように見える概念を統合した天才がピーエル・ド・クーベルタンであった。時は1894年、ナショナリズムが色濃くなる世界情勢を憂慮していたフランス人教育者クーベルタン男爵は、古代オリンピアの思想を復興することで欧州そして世界を救うことを夢見、賛同する人々と国際オリンピック委員会IOCを立ち上げたのである。(6月23日。因みにこれは私の誕生日の次の日である) そして同年5月20日、嘉納治五郎は講道館大道場落成式を迎えている。嘉納はそれまでの柔術を「道」という理念に止揚することで、勝負から道への理念化を実現したのである。折しも洋の東西の二人の天才が身体活動を通じて世界平和を模索する一歩を同じく踏み出していたのであった。そしてこの年、日清戦争が始まった。その翌々年1896年ギリシアはアテネでの第一回オリンピック競技大会が開催される。まさにスポーツで平和を求める運動は世界戦争と並行して進んでいくのである。方や武器を持たず自らの身体のみで闘い、その闘いの中で、相手(敵)の尊厳に触れていく運動、かたや武器を持って相手の存在を抹消する運動。ここにまさにオリンピズムの真髄があると言えるだろう。ドラマではその精神に感動する嘉納治五郎を描くが、彼の発した「相手を認めた上で戦う中で平和が生まれる」という言葉は、ややもすれば、平和な社会でなければスポーツはできない!だから平和が大事という世俗論法に結びつく場合がある。故に、明言すれば、「武器を持たず公平なルールの下で戦うスポーツによって相手を敬う精神が生まれ、それが平和な世界に結びつく」というべきである。それが本来のオリンピズムの意味なのであった。

純粋五輪批判第一話「オリンピズムの根本原理」了

春日良一

Hello world!

NHK大河「韋駄天」をスポーツ思考
スポーツを哲学する。哲学をスポーツする。として始めたスポーツ思考もメルマガ発行から21年の歳月が過ぎました。

NHK大河「韋駄天」をスポーツ思考

2020年東京五輪を迎え、今年のNHK大河ドラマは「韋駄天」。日本がオリンピズムに目覚める過程が描かれるはずです。

スポーツ思考で追求してきたオリンピック精神は果たしてどのように描かれるのか?

宮藤官九郎氏の演出を批判するのではなく、そこに描かれるオリンピズムを純粋に批判します。題して純粋五輪批判。苦手のカント様の著名な書「純粋理性批判」から頂戴しました。