私が初めて人見絹枝という名前を聞いたのは父からだった。下宿屋を営んでいた我が家では、夕食後に下宿人の小中高の先生たちや高校生のお兄さんが集まりお茶を飲みながら父の話を聞く時間があった。海軍航空隊の少年兵として戦争を体験し、戦後、浮浪児のために児童福祉士となった父親の体験談は面白可笑しく盛り上がった。陸上100メートルの県記録を持っていた父はスポーツ好きでもあり、戦前戦後のスポーツ人の話にも花が咲いた。
しかし、NHK大河「いだてん」が人見絹代を取り上げて、初めて私は人見絹枝に出会った。人見絹枝がアムステルダムの第九回オリンピック競技大会で銀メダリストとなったのは、1928年である。父が4歳の時だ。父は一つ年上の長男が小学一年生で運動会のかけっこに登場すると長靴をはいたまま一緒に走ってしまったという。小学五年の時、六年の兄とリレーのアンカーとなり、兄を抜かして一等となった。喜び勇んで帰宅すると大祖母に拳骨を食らい室(むろ)に入れられたという。走るのが大好きな父にとって、人見絹枝はスーパースターだったのだろう。
番組では第26回で人見のアムステルダム五輪、陸上800M女子で見事に銀メダルを獲得する人見に焦点を当てるが、それまでの回で、岡山女学校時代のテニスでの活躍やその後二階堂体育塾時代の文武両道ぶりを端的に描いてみせている。
身長170㎝と当時としてはかなりの長身の人見が「化け物」「大女」と呼ばれて、運動でも男勝りの活躍をすると、それを揶揄する人々がいて、学問にも秀で文学に関心が高かった彼女が、陸上を続けることを悩むシーンが取り上げられ、女子スポーツの社会的な認知との闘いが流れの軸とされていた。
実際は人見はかなり前向きで明るいアスリート気質であったと思われ、彼女の前向きな取り組みが必ずしも悲劇的なものであったとは思えない。しかし、一方で国民の期待に応えようとするプレッシャーは相当なものであった。大会前に三段跳びで世界新記録まで出している人見への期待は大きかったが、必勝と思われた100メートルが準決敗退となり、未経験の800メートルに挑戦しようとする人見に「女子選手全員の希望が、夢が、私のせいで立たれてします!お願いです。やらせてください!」と懇願させている。
人見絹枝を演じたのは菅原小春。人見のアスリート気質とは違うものを感じていいたが、彼女の本職がダンサーであることを知り、納得。アスリート気質よりも初挑戦の世界にかける切羽詰まった感じが人見絹枝が背負っていたものをひしひしと感じさせた。
国の期待のプレッシャーと女子スポーツ認知への闘争が背景に描かれている。人見の背負っていたものがそこまで大きかったとは思ったことがなかったが、24歳の若さで早世したことを思うと彼女の内心に刻まれていた使命というのは相当に重いものであったと思う。
実際、国の期待を背負うということがどれだけ凄まじい重荷であるのか、また女子スポーツ認知という大義がどれだけの負担であったか、その状態を背負った人にしか分からない世界である。
「人見絹代、すごい選手がいたんだ!」幼い私に刻まれた父の言葉の意味がやっと分かった。
純粋五輪批判第九話了
春日良一