第二話 スポーツと体育

大河ドラマ「韋駄天」では東京師範学校の恐くて厳格な寮長である永井道明が登場し、嘉納治五郎の進めるオリンピック参加に時期尚早と批判する役目を負っている。スウェーデン体操を日本に広め集団体操の礎を築いた人として、彼に「体育」の理念を背おわせ、方や嘉納治五郎には「スポーツ」を主張させるという演出である。

しかし実はこの体育とスポーツの対立的思弁は今日的な観点と言える。1964年の東京オリンピックの開催を記念して、10月10日の開会式は「体育の日」と定められ、日本国民のスポーツへの関心の促進と健康生活への寄与が期待された。この時、体育とスポーツは分離した概念ではなく一つのものとして自然に考えられていたと言える。体育の日の制定根拠に「スポーツを楽しむこと」が入っているのを素直に考えれば両者を敢えて分けて捉える必要がなかったのである。

同様に明治初期、日本にスポーツが入ってくる段階で、身体運動を体育と訳したのはphysical education、直訳すれば身体教育のことであり、体育はその略称だ。同じく身体活動を伴うスポーツがそこに「言葉として」表現されていても不思議ではない。この問題は私が日本体育協会国際部ならびに日本オリンピック委員会国際業務部参事として「スポーツの翻訳語」を研究して、諸先輩が継承してきた適切な専門用語の翻訳を受け継ぎ、発展させた時にぶち当たった問題でもある。

なぜ日本体育協会をJapan Amateur Sports Associatonと訳したのか?なぜ国民体育大会をNational Sports Festivalと訳したのか?そこには実は体育という言葉にスポーツの理念も包含させる意味があったからである。

昨年から日本体育協会は日本スポーツ協会に変わった。そして 2020年から「体育の日」は「スポーツの日」と変わるそうだ。それをあたかも日本のスポーツ界の進歩のように思い込んでいるスポーツ関係者やスポーツ評論家にはうんざりする。彼らは体育が背負っていたスポーツの理念を全く無視しているからだ。

彼らにはスポーツというカタカナ語がSportの翻訳だと思い込んでいる無知がある。Sportというのは一つの競技を表す場合もあるが、実は身体運動が求める理念を示す言葉でもあるのだ。故にSportとSportsは相違する。Sportsをスポーツと訳し、それをスポーツが持つべき理念であるというのは無知である。Sportsはただの競技である、Sportは理念である。本当にスポーツ界を進歩させたいというならスポートという新たな翻訳語を提言する他はない。

これから大河ドラマ「韋駄天」では、永井道明に体育を背負わせ、嘉納治五郎のスポーツと対比させるのであろうが、その根本には上記の歴史的誤解がある。

純粋五輪批判第二話「スポーツと体育」了

春日良一