第五話 代表であること

第17回は1916年開催予定のベルリン五輪が中止になった知らせから始まった。嘉納治五郎が金栗四三にそのことを知らせる場面は、流石に息を呑んだ。そして、金栗の落胆ぶりを表現するのに二日間も部屋に引きこもっている金栗を描く。後輩、恩師、先輩が心配して訪れる。車夫の清さんが「元気だせよ韋駄天!気晴らしに走ろうぜ」と慰めるが四三は虚空を見つめて言う。「オリンピックののうなったとに、なーし俺ぁ走るとですか」と。

1980年日本オリンピック委員会(JOC)がモスクワ五輪を政治的理由でボイコットした時、柔道の山下泰裕が、レスリングの高田裕司が、そしてマラソンの瀬古利彦の気持ちを代弁するかのような言葉だ。それだけオリンピックは選手にとって重要な意味を持つものだということだ。それが頂点にあるからこそ、その山を目指して日々の努力が正当化されるのである。その山が消滅した時、すべての日々が虚しくなるのはどうしようもないことだ。この虚無感は絶望の一歩手前かもしれない。狂ったように揉める清さんと四三。どこからともなくやってきた妻、スヤが四三を引っ張りだし、桶の水を浴びせる。「こん人、水ばぶっかけると大人しゅうなりますけん」と迫力満点の場面。評判の「低迷する視聴率」もここから一揆に浮上しそうだ。綾瀬はるかのチャーミングでピュアでクレバーでキュートな演技がぴったりはまる。

しかし、私が最も感動した言葉、それは、四三ともみ合い、気合を入れる清さんの一言だ。「俺たち(車夫)はよう、行先も自分で決めれねえんだ。客に新橋って言われればそこに走るしかねんんだ。おまえは俺たちの『代表』だろう?それが目指すとこがねえんじゃ、俺たちちゃどうしたらいいんだよう」というようなことだった。正確に表現できていないが、この言葉が私の魂を突き、涙が溢れてとまらなかった。

代表、日本代表の意味を見事に表現していたからだ。

なぜ我々は金栗四三を応援するのか?なぜ我々はイチローを応援するのか?なぜ我々は錦織圭を応援するのか?なぜ我々は、なでしこジャパンを応援するのか?

それは彼らに自分を代表してもらっているからだ。私が努力しても達成できない姿をアスリートに託し、そしてそれを応援するのだ。日本代表というのは、日本という国家を代表するのではなく、同じ国に生まれ、同じ日本人として育ち、そして自分が共感できるゴールを追いつづけるその人に、日本人としての自分を代表してもらっているということなのだ。

だから金栗四三が期待される結果を残さなかったとしても、応援している自らを代表してもらっている共感があり、それ故、その結果についても共有できるのである。

それは選手自身にとっても同様で、自らが自らを代表して競うからこそ、そこに自己実現というゴールがあることになる。

代表とは努力への共感である。

この理念こそオリンピズムの真髄であり、だからこそオリンピックはナショナリズムを超えることができる。国の代表である前に、「自ら」の代表であることが大命題として措定されているからである。

スヤが四三に語る。「私は金メダルなど欲しくはない。が、四三さんが金メダルをとって喜ぶ笑顔がみたいから、応援するんだ」

オリンピックを取り巻く人々が、頂点を目指すアスリートを支援する意味が端的に語られている。

次回からの視聴率アップが期待される。「いだてん~オリンムピック噺」は今のところオリンピズムからは順風満帆である。

純粋五輪批判第五話了

春日良一