先日、あるインターネット番組に出演した時、「NHK大河ドラマいだてん(韋駄天)を褒める人に初めて出会った」とのお褒め?のお言葉をいただいたが、実際、NHKの方からも視聴率が上がらないとの嘆息もあったので自分が珍しい方の人間であることを再認識した。
しかし、表現のお道化や可笑しさの裏に潜むオリンピックの捉え方に注目すれば、「いだてん」は間違っていない。いないどころかかなり真摯に捉えていると私は感覚的に思っている。実際、体協職員という現場や五輪代表選手団の裏方本部、そして熾烈な五輪招致合戦といった形でオリンピック運動に携わってきた者にとって、「いだてん」は違和感がない。それが面白く演出されているので楽しめるという次第。
既にテレビは第十回を終えたが、初回から問題提起されている当時の日本のスポーツ事情を「いだてん」は「訓練と自由」という観点から追求しているようだ。そしてこれはある意味、日本のスポーツ界の今をも警鐘する鋭い突っ込みである。
昨年、特にクローズアップされた日本スポーツ界のパワーハラスメント問題は、スポーツが個人の「自由」に基づくものでありながら、トレーニングや試合の過程で、監督コーチと選手の上下関係が派生し、スポーツが何かの「訓練」に転化する現象だった。
文明開化と共に外国人教師などによって日本にスポーツが持ち込まれて、それをどのように日本が受け入れたか?というところに問題の発端がある。永井道明が欧州歴訪の後、日本人の体位向上を目指して導入したのが、スウェーデン体操であった。そしてその体操の一つの道具が肋木であった。大河ではその肋木に体位向上のための「訓練」を象徴させている。
永井が薦める肋木を行う可児徳(高等師範学校助教授)に嘉納治五郎が「楽しいか?」と聞く場面があるが、それは「訓練」だけの身体運動では、楽しさが伴わないから、広まらない。日本人の体位向上には毎日体を動かすことを好んで行うモチベーションあるものが必要だという嘉納の考えを端的に表すシーンであった。実際、嘉納は学校で行われている体操が良法であるが、興味がわかないので、義務として行うが生涯続けられない。面白さのあるものが求められるとしている。
そして今でいうジョギング、ウォーキング、スイミングを薦めている。
まさに楽しさを求めて自ら体を動かすようにならないと本来のスポーツ振興とは言えないということである。つきつめれば、それが「自由」であり、まさに日常からの解放を実感できるスポーツということになるだろう。番組では天狗倶楽部を登場させて、楽しむためだけにスポーツを行うバンカラな青年たちにその「自由」を表現させている。
しかし、ただただ楽しんでいるのがスポーツではない。そこに「戦う」という要素が入り、競う、倒す、勝つという相手を克服する運動が入る。それがまた楽しさを生む。ただ走るのが好きで毎日ランニングを欠かさない金栗四三が一番になるためにトレーニングを始めれば、そこからスポーツはただの遊びではなくなる。
そして、世界の若人が集まるオリンピックはまさにその戦いの頂点である。スポーツの「自由」は至高の戦いの場に参加する意志を育て、そこで勝利を求める若人に「訓練」を課す。その「訓練」は若人が「自由」によって選んだものである。だからこそ、実を結ぶのである。
故に「より速く、より高く、より強く」がオリンピックモットーである。
嘉納治五郎が「体育」に求めていたものが、「自由」からの「訓練」であれば、彼の「体育」と「スポーツ」には隔たりはなかったと言えるだろう。
純粋五輪批判第三話「訓練と自由」了
春日良一