第十一話 1940年の東京五輪

ある評論家に「田畑さんはあんな風だったんですか?」と不思議そうに聞かれた。実際に知っている田畑政治さんは既にご高齢で、車椅子で体協理事会に来られていたので、阿部サダヲ演ずる若き田畑さんは想像するしかない。先輩諸氏から仄聞する数々の武勇伝からイメージすると阿部サダヲ田畑政治はあり得る気がする。政府が何と言おうが五輪の運営はスポーツ専門人がやるしかないと1964年の東京五輪では一歩も引かなかった男である。若き頃に上司をなんとも思わず、自分の信念のためには突き進む、そういう人間でないと五輪は招致できない。

またなぜか黎明期のアスリートやスポーツ団体関係者には新聞社出身が多い。新聞記者の魂は体制批判であるだろうから、政治と渡り合うのは当然のことであっただろう。

大河は本日第33回となり、1940年の東京五輪招致の話になっている。前回の32回から独裁者ムッソリーニ首相のイタリアの首都ローマが立候補の強敵として紹介される。国を挙げての支援体制とともにオリンピックスタジアムが既に完成されているという情報もある。そこで「逆らわずして勝つ」嘉納治五郎は、ムッソリーニに直談判して、東京に譲ってもらおうとする。折しも日本から三人目のIOC委員となった杉村陽太郎は、ローマにイタリア大使として赴任することになり、この交渉実現の労を取る。ムッソリーニからのローマ立候補辞退の確約を得るも、IOC総会にはローマの立候補があった。

そんなわけはない!という杉浦の主張は、IOC会長ラトゥールに拒否される。オリンピック理念は政治からの自律を本懐としているからである。嘉納治五郎はスポーツ故のアプローチでムッソリーニという時代の政治家にアプローチする。この手法こそスポーツ外交と呼ばれていい。スポーツが政治を利用して国と国の争いを融和することこそクーベルタンが求めていたところだろう。

大河はラトゥールに五輪理念を背負わせつつ、田畑政治には「オリンピックは単なる運動会」と言わせるなどバランスを取っているが、1940年の五輪招致には明らかに日本の国威発揚の意図があったはずで、紀元2600年の大行事の一つとして考えられていた。このことを知りつつも、五輪を呼ぶ意味があったのは、そこに戦争回避の仕掛けが存在したからだ。

満州事変が起き、日本は国連から脱退し、日本の軍事力強化が図られる時勢の中で、東京に五輪を招くことによって、東京自身が変革され、新しい日本ができるという明るい未来が希望できた。スポーツ施設や交通網の整備にかなりの経費をかけなければならない。それが必要だという意識が生まれれば、そこにお金を費やすことになり、結果、軍事費に回らなくなる構造ができる。

オリンピックが世界平和を作るという理念は、さまざまなところで、実現への礎石を打っているのである。その一つが五輪にお金をかけるのは平和につながる!ということである。国家プロジェクトとして五輪に投資することは、軍事費の抑制につながるだろう。

日本は1940年の五輪招致を成功させるが、それは次回の展開になる。戦争が起きてオリンピック開催を辞めるのか?むしろそうだからオリンピックを開催するというのが、より効果的な防衛につながり平和構築への一歩となる。

純粋理性批判第十一話了

春日良一