第十二話 スポーツ外交

オリンピズムはスポーツで世界に平和をもたらす、平和な世界をつくるという哲学である。哲学であるからそれを現実化する努力が求められる。これまでこの世から戦争がなくなったことがないのはなぜか?平和な世界を求めるのは万人の願いではないのか?それらの難問に一発で蹴りを付けるにはスポーツがベストである。そこには良いも悪いも存在しない。あるのは公平(フェアネス)ということだけだからだ。

スポーツ外交という言葉がある。この言葉も曲解すれば全く別に意味になってしまうことを私自身がVTR出演した番組で経験した。平昌五輪で女子アイスホッケー統一コリアチームが直前に誕生したことを政治がスポーツを利用しているとして、多くのメディアが批判した。私はこの時、荻村伊智朗氏が国際卓球連盟会長として行った1991年の世界卓球選手権の統一コリアチームの実現を想起し、五輪で初めての統一コリアを肯定した。これはスポーツの場でしか実現できないことであり、政治によっては叶わない現実であるからだ。そしてそこに至るまでのスポーツ人による交渉をスポーツ外交と解説した。

しかしスタジオでは、政治評論家が「いよいよ北朝鮮がスポーツを外交手段に使うというところにシフトしてきたのですね」と語り、政治がスポーツを使うことをスポーツ外交と解釈したのである。そこから番組はスポーツ外交が良くないこととして展開していく。

ポイントはスポーツ外交は相手を認めるために闘い、政治は相手を潰すために戦うということである。統一コリアチームの実現は互いを認め合うために行われた。それは金正恩氏と文在寅氏がオリンピズムに服した象徴となる。相互の政治的思惑を超えたところで、南北が一つになるという夢を表現したのである。

果たして、NHK大河「オリンムピック噺~いだてん~」第33回は、1940年五輪招致を巡る日本の駆け引きについてであった。在イタリア日本大使となったIOC委員の杉村陽太郎がローマの立候補を取り下げてもらうという工作をムッソリーニに対して水面下で行い、その結果、ローマの辞退を獲得した。このことは果たしてオリンピズムから見て正しかったのだろうか?これはスポーツ外交と言うべきものだろうか?

杉村大使の奮闘によって、「イタリアの政府は第12回大会を東京に招致せんとする日本の希望を支持することを決定した」というムッソリニー首相の通告を取り付けた。政治的交渉の結果である。しかし、オリンピズムはこれは政治的手法によって、政治的解決をもたらしたとしか判断しない。

大河もIOCがこの工作を政治的と見て1935年のIOC総会で決すべ開催地決定を翌年のベルリンでの総会に延期するラトゥールIOC会長の威厳ある宣告を見事に映し出した。

五輪を立候補するのは都市であり、国ではないこと、ムッソリーニ首相が通告してもローマが立候補することは可能であること、そして、ムッソリーニの通告は政治のスポーツへの介入と捉えること。あくまでもスポーツはスポーツで決めなければならないこと。最もオリンピズムが重視することである。

杉村陽太郎は窮地に追い込まれ、IOC委員を辞任することになる。IOCの求めるスポーツ外交は、政治的にローマの立候補を取り下げさせることではなく、ローマと正々堂々と招致を闘うことだからである。

スポーツ外交と政治的外交の違いについては、私の体験からも語れることがある。これについては、次回、日刊ゲンダイのコラムに譲ることにする。それはバルセロナ五輪の時のことである。

宮藤官九郎は杉村陽太郎の落胆ぶりを「日本への一票はすなわち嘉納治五郎への一票なんだ。・・・俺は嘉納治五郎にはなれない」

しかし現実はこうだ。

「政治的取引はスポーツ外交に叶わない」

これがオリンピズムの極意である。

純粋理性批判第十二話了

春日良一