第十三話 2.26

1936年、ベルリン五輪の年に二・二六事件は起きた。未明、雪の東京を闊歩する陸軍青年将校の足音から第34回「オリムピック噺~いだてん~」は始まった。緊迫する張り詰めた空気が見事に描かれていた。そういえば田畑さんは赤坂に住んでいたので、青年将校の通り道になっても不思議はない。大蔵大臣、高橋是清の暗殺の銃声がリアルに響いた。

2.26が私にとって身近になったのは、岡野俊一郎氏のおかげである。彼がJOCの総務主事時代に誘ってくれた銀座のマドンナという老舗のバーで、そこの名物女将?!ママさんが私にその日のことを話してくれたからだ。まさに決起する青年将校がマドンナで呑んでいたそうだ。雪が降ってきたので、ママはその一人に家まで車で送ってもらったそうだ。それが、その後、事件を起こすなどとは思ってもみなかったそうだ。岡野氏は小石川高校( 都立第五中 )の頃からマドンナに通っていたという。しかも「俺は学割だったんだ」と威張ってみせた。いつも毅然として事務局にやってくる岡野総務主事がママに「俊ちゃん」と呼ばれているのが面白かった。「俊ちゃんはちっちゃい頃から常連だったわね」後から、岡野氏が築いた人脈の多くはこのマドンナに来る客からのものだったと聞いた。流石に2.26の時は4歳だった岡野氏がマドンナにいることはなかっただろうが、老舗岡埜栄泉の社長は来ていたのだろう。

「オリンムピック噺」が描くように田畑政治は犬養毅にも高橋是清にも堂々と会っていた。スポーツ界の人間が政治家に気後れすることはなかった。

第34回「オリンムピック噺~いだてん~」はそのような戒厳令下の日本にIOC会長ラトゥールを招き、1940年五輪開催都市としてのアピールをする「おもてなし」の姿を描く。当時の新聞情報も駆使した描き方はリアリティがあり、胃の腑に落ちる。

軍国主義が蔓延る中、嘉納治五郎をはじめとするスポーツ界の要人は頑固として譲らないところは譲らないとしていた。もっと言えば闘っていいた。

「いだてん」では取り上げられていないが、日本が五輪に参加するようになる土壌として極東大会といういわばアジア大会のルーツというべきものがあり、第十回大会は、1934年にフィリピンのマニラで開催された。この大会の代表派遣に陸軍は満州国代表を参加させろと言ってきて、もしそれができないのならば、日本代表を派遣するなとの圧力をかけてきたという。

これに対して、スポーツ人は毅然とした態度を貫いた。実際に水泳選手や陸上選手が右翼に襲われたり、不参加を強要されたが、頑として参加を主張したという武勇伝もある。軍部のスポーツ界への圧力は相当なもので、長いものには巻かれろ根性の大学では「選手を出さない」と言い始めたそうだが、その時田畑政治はアマチュアスポーツの命のために体を張った。田畑が記者であった朝日新聞だけは、極東大会ボイコットを呼びかける他の新聞社とは違い、「参加せよ」を貫いた。

サッカーの竹腰重丸と陸上の渋谷寿光を満州に派遣し満州国を説得し、右翼の執拗な攻撃にも屈しなかった。田畑自身が自伝でこう言っている。「とにかく、当時のスポーツ人は偉かった。名誉会長の嘉納治五郎さんも、IOC委員の杉村陽太郎さんも『参加せよ』を激励してくださった」

「とにかく私はスジを通して軍部に屈しなかったことを誇りに思っている。スポーツは純粋でなくてはならない。権力とくに暴力に負けなかったことは今でも自慢できる」とは田畑の言葉だ。

「オリムピック噺~いだてん~」がこのストーリーを取り上げたら、もっと迫力あるシーンができたかもしれない。サッカーの竹腰重丸さんは私のようなサッカー小僧には雲の上の存在だったが(私がサッカーを始めた小6の頃、彼はサッカー協会会長だったはず)、その人が若かりし頃、スポーツのために覚悟を決めて軍部と闘う決心をする場面などは、絵にしてほしいところだ。彼は夜半自宅の庭に出て抜き身の日本刀を構え、暴力には真剣をもっても対決して屈せずと、月の光に日本刀を輝かせて心を正したという。

まさに私がスポーツ人に期待する姿だ。

私もJOC現役時代、夜半、家を飛び出し、大木に向い木刀を振りかざし、私のJOC改革に刃向かう敵の像を切ったものだ。

今のスポーツ界に本当のサムライがいない。自らの出世と保身が第一の人々にスポーツ界を変える力はない。心してオリンピズムを論じるところだ。

(一部敬称略)

純粋五輪批判第十三話了

春日良一