追悼 上田宗良 ~スポーツを愛するということ~

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  週 刊 ス ポ ー ツ 思 考 vol.330
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  Sport Philosophy 

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 追悼 上田宗良

 ~スポーツを愛するということ~

 11月28日、一枚のファックスが来た。JOC名誉委員上田
宗良の通夜と葬儀を伝えるものであった。余り公にしたくないと
の遺族の思いがあり、参列は葬儀が望ましいとの添え書きがあっ
たので、その指示に従い、29日の葬儀に出向いた。

 本当に身内だけの葬儀で、上田を知る私にはとても寂しい気が
した。一方で上田らしいとも思えた。国際ホッケー連盟理事、ア
ジアホッケー連盟副会長、JOC副会長、日本ホッケー協会会長
など数々の要職を歴任し、逝去した22日の直前まで日本スポー
ツ仲裁機構の仕事をベットの上でしていたと夫人から聞いた。

 私は体協、JOC時代に何人かの役員と海外に出かけたが、上
田との旅はどれもユニークで心に残るものが多い。

 それまで柴田勝治JOC委員長、岡野JOC総務主事、宮川毅
IOC報道委員などと国際舞台での仕事に仕えてきたが、それは
ほとんどがANOCやIOC総会など大きな国際会議のものであ
り、1990年2月の上田との最初の海外出張とは違って政治的
なものが多かった。

 私にとって上田との仕事の最初は、日本を代表して、日ソ、日
東独、日洪スポーツ交流協定を調印するという仕事で、国際派と
して頭角を現してきた上田にとってもそれは体協国際交流委員と
しての初舞台であり、ある意味、大仕事だった。

 締結前の交渉事はほとんど事前に済ませておくのが常道だが、
1989年11月ベルリンの壁が崩壊翌年のことで、ソ連には
ペレストロイカ、改革の風が吹いており、実際、現地に行って状
況を把握し、先を見据えた臨機応変な対応が必要だった。

 この二国間スポーツ交流協定は共産圏の諸国とのスポーツ交流
を円滑にするため、両国のスポーツ権威が両国スポーツ界を代表
して調印するもので、それによって、各競技団体の相互交流の促
進を促すものである。この協定により査証手続きや入国手続きが
簡素化され、滞在費は招待国が旅費は派遣国が持つなどの基準が
敷かれるのである。

 ソ連崩壊、東西ドイツ統一という中で、スポーツ交流協定も必
要がなくなるかも知れない。最後の調印となるかも知れない。ハ
ンガリーについては新協定締結であったが。いずれにしろ、冷戦
時代終結後のソ連、ドイツとの交流の基盤とその後の欧州スポー
ツ情勢を探る旅でもあった。

 その任務に日本体育協会国際交流委員会委員になったばかりの
上田が抜擢されたのである。真摯な上田は私に出張前から協定書
について詳述を求めた。アジア開発銀行頭取の秘書も務めた経験
もあり、事務方を信頼することも一方で心得ていた。英語が得意
でない役員が多い中で、上田は堪能であった。彼との仕事はスム
ーズだった。私は翻訳や通訳業務を省略して、直接交渉に入るこ
とができた。

 上田の体協国際交流委員会への登場は、1964年東京五輪以
降にリーダーシップを執ってきた役員達から新国際派が誕生して
いく流れの始まりだった気がする。

 その後、JOCの完全独立(1991年)があり、荻村伊智朗
(国際卓球連盟会長)のJOC国際交流委員会委員長就任によっ
て、新国際派の台頭が継承する。その末席にいたのが現竹田JO
C会長である。

 上田は国際ホッケー連盟の理事やアジアホッケー連盟副会長と
いった要職にあったが、常に謙虚で冷静だった。この姿勢を生涯
貫いた。まず事務局の仕事を尊重し、その方向性を役員としてフ
ォローするという姿勢である。

 かつて岡野俊一郎(元JOC専務理事、現IOC名誉委員)が
JOC総務主事時代に私によく語った言葉を想起する。「我々役
員は任期がある。知識、経験、情報という団体の財産は、君たち
事務局に残るものだ。だから職員が大事なのだ」

 上田が50代だった頃のJOC役員というものはそういう意識
がある人々が主流だった。自分がしゃしゃり出て手柄を立てて、
その後の任期を延命したり、要職に就く画策をしたりする輩が主
流となることは決してなかった。事務局が確固たるものだったか
らだ。そして役員の行動規範に誠実性があったからだ。

 上田はその典型かもしれない。私が一緒した頃は昭和海運の要
職にあり多忙だった。理事会議事録の署名によく彼の会社の役員
室を訪れた。その中で、ホッケー関係、JOC関係の会議出席や
海外出張にも尽くす。すべてボランティアである。事務局の仕事
に信頼を置かなければできない話だ。もし主たる仕事が多忙なら
ば。役員は職員の仕事に信頼を置き、職員は役員のモラリティを
尊重する。これが団体運営の理想的なバランスである。

 三カ国歴訪はベルリンの壁とオペラ、ブタペストの美しき夜、
そして雪解けのモスクワでのデモとそれぞれ様々な思い出がある。
共産圏の待遇はすべてVIP扱いである。入国も出国もすべてフ
リーパス、タラップまでの送迎である。調印は成功裏に進み、最
後はシャンパンの乾杯となるのがお決まり。上田の紳士ぶりも際
立った。

 そんな中、上田がハンガリーでの会食後のバーで一度だけ声を
荒げたことがあった。対談中にハンガリーNOC会長秘書から日
本人の宗教を聞かれ、説明なしに「無宗教」と答えた私に激怒し
たのである。アスコットタイをおしゃれに身に着け紳士そのもの
の彼であったが、外国人にとって「無宗教」が意味することを私
に説いた。それについては私なりの言い訳はあるものの、ひとつ
の外交基本として受け入れた。外交についての論理を語る役員も
上田が初めてだった。(その後、荻村とは私の宗教論を語る機会
があり、それはそれで新たな国際戦略の基礎となったが)

 上田とのもうひとつの思い出。1993年のモンゴルへの出張。
既にJOCは新生JOCとしてスタートしていた。新規事業とし
て、私が企画したODA(Olympic marketing Development Aid)
オリンピックマーケティングによる発展途上国の自立的財政援助
プログラムの最初の受入国である。荻村国際委員長の下、新生J
OCの国際貢献の一環として発案したものである。

 この出張も二人だった。2月厳寒のモンゴルの旅。ソ連崩壊後
自由経済への移行がままならぬモンゴルの首都ウランバートルで
のレクチャーと会談。当時のNOC会長は我々を快く迎え入れ、
真剣にオリンピックマーケティングの導入に傾聴した。でも一番
盛り上がったのがゲルでの歓迎会。IOC委員、NOC会長、事
務総長と我々が迎賓館に用意されたゲルでモンゴル式の接待を受
けた。最後はジンギスハンというウォッカの乾杯の連続。酒好き
の私は酔いしれ、鷹の舞まで披露し、主宰を喜ばせた。上田は暖
かく見守ってくれた。

 機上での時間、上田は友人であるマレーシア国王の話をよくし
てくれた。「ホッケーがなければ国王などと友だちになれるわけ
もない。スポーツというのはマジックだね」アジアホッケー連盟
の会長はマレーシアの国王であった。

 自らの仕事を有し、その仕事でも成果を出し、かつ自分の愛し
たスポーツに自らの時間を捧げる。それがスポーツ界の役員のあ
るべき姿なのだろう。家族にとってみれば、なんでそんなに時間
を削ってまでスポーツにこだわるのだろう?もうそろそろお休み
になったら?という思いもあったのではないだろうか?上田も家
族には自分の弱みを見せる時間があっただろう。機上や現地で体
調不良になったこともあった。夫人が、そっとしておいてと思わ
れるにはそれなりの歴史がある。

 しかし一方でスポーツ界は上田を忘れていいのだろうか?葬儀
にわずかばかりのスポーツ界の顔があった。少なくともJOC副
会長であった人の死である。国際ホッケー連盟は長文で上田の逝
去を悼んでいる。
http://www.fih.ch/en/news-5397-mr-muneyoshi-ueda-passes-away

 その死をどう受け止めるか?それはその人の生をどう受け止め
るかにかかっている。上田宗良の死はスポーツを愛するというこ
とがどういうことかJOCに突きつけている。

                        (敬称略)

2014年12月26日  
                        明日香 羊         
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                                  ────────<・・

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編集好奇
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 岡野俊一郎から上田宗良そして荻村伊智朗が私のスポーツ外交
暦を端的に現しているかもしれない。

 岡野でスポーツ外交の基礎を学び、上田とともに実践練習、そ
して荻村と応用編に挑んだ。アジェンダ2020の提言を分析、
思索することの中に未来のスポーツ外交が見えてくる気がする。
そう言えば一緒にとった写真は上田氏とのものが多い。

 私がJOCを去った1995年5月、上田氏から一通の葉書が
届いた。「君との蒙古の旅、東独、ロシアへの旅、深い思い出で
した。いつかまた五輪の地で会えることを」反逆児の烙印を押さ
れた私にスポーツ関係者から届いた数少ない書簡のひとつだった。

 上田氏は藤沢周平を好んだ。旅にいつも持ち歩いていた。身分の
低いものが自らの器の中で体制に立ち向かう時代小説。弱い者を
応援する気持ちが心の底にあった人だった。

 安らかな永眠を!
 
 皆様のスポーツ思考を期待しつつ

                         春日良一

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  考?ご期待
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