オリンピックと戦争 〜パクス・スポルトの論理〜

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週 刊 ス ポ ー ツ 思 考 vol.439
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オリンピックと戦争
〜パクス・スポルトの論理〜

オリンピックは平和の祭典と呼ばれる。
世界各国から集まった選手たちが一つのルールの下に競い合う。
国境を越えて、人種を超えて、宗教を越えて、あらゆる差別を越えて。
故にオリンピックを開催する意義がある。
この論理は綺麗事と言われるが、全面的に否定されることもない。
平和への志向を否定するのは躊躇される。

しかし現実は厳しい。
実際、東京五輪休戦期間にアフガニスタンではタリバンが武力で政権を奪取した。
もっとも米軍が去ったアフガンの領地を守る国軍にはタリバンと闘う理念がなく、
事実上、無血開城が各地で起こったに過ぎない。
米国のアフガン占領の欺瞞が現れた。
ベトナム戦争がそうであったように。
思えば、1980年モスクワ五輪ボイコットを唱えたのは米国で、
前年末、ソ連がアフガンの社会主義政権を支援するためにアフガニスタンに
侵攻したことへの報復であった。
この時、各国オリンピック委員会がオリンピックの理念のために
五輪参加を決めていれば、今のアフガンの状態は起きなかったと言えるだろう。
真に、オリンピックが平和構築の証となるには、
その理論を支えるもっと強固な平和論が必要ではないか。
と思う所以だ。

2021-10-07 8

巷のオリンピックと平和を結びつける論理は、
オリンピックができるほどの平和な世界にしなければならない!
と言うお題目に過ぎない。
多くの人は、東京五輪を招致した人も含めて、そう考えているようだ。
森組織委元会長もそうであった(遺書 東京五輪への覚悟 (幻冬舎文庫))し、
「安全安心な五輪を開く」としか言えなかった安倍元首相も菅元首相も
そうである。
平和を作るのは政治であり、スポーツではないと言うのが本音だ。
だから武器による紛争解決を拒否する憲法第九条を否定する。
すると、それはこれまで人類が実現できなかった平和へのアプローチを
続けていることと同じである。
それは何も体制派の専売特許ではなく、左も右も同じレベルにある。
人皆、平和を作るのは政治だと思っているところで、
永遠の悪循環に陥り、永遠にこの世の平和は実現しない。
平和な世界を作るために政治があり、デモが行われ、
広島での平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)を続ける。
しかし、一向に核兵器は無くならず、殺戮兵器は無くならず、戦争も消滅しない。

平和構築には実践的論理が必然でなければならないはずだ。

私がオリンピズムを訴えるのはその思いからだ。
世界平和構築という目的のためにスポーツを使う。
スポーツしか国家を肯定しつつ、ナショナリズムを超える「思想」はない。
故に、四年に一度のオリンピックを開催し、休戦を実現し、
その休戦を恒久化する努力こそ、
政治をコントロールして、平和を引き出す秘策になる。
オリンピックは単にスポーツという競技会に留まるものではなくなる。
四年に一度、武器を置いて、オリンピアに集まる「思想」が平和を作る。
故にオリンピックが平和の祭典と呼ばれることにならなければならない。

平時にはスポーツの価値を訴え、オリンピックの平和を主張する人々が、
一旦、五輪開催が自らの日常を脅かすとなれば、五輪反対運動を繰り広げる。
それはスポーツを自らの政治思想の支配下に置いていることを暴露している。
スポーツは政治、思想、宗教を超えるから平和が作れるという論理に逆行する。

この世は厳しい現実を突きつける。
例えば、アフガニスタンの現状はタリバンの支配下にあり、
女性の人権も脅かされている。
武力により支配が続く。
これに武力で対抗しようとするか、デモを行うか、外交を模索するか、
いずれにしろ政治的に解決しようとすれば、そこに出てくるのは対立でしかない。
武力を使わないにしても、対立を如何に止揚して調和を図るかの努力しかない。
これは自己矛盾であるからトートロジー(循環論法)に陥る。

そうではなくて、オリンピック開催を世界各国の参加によって実現する中で、
あらゆる政治的指導者もこの成功を支援する形を表出しようとすれば、
世界の動向が変わる。
それは四年に一度のチャンスに自らの命をかけて日々の努力を続ける
世界の選手たちによって可能となる。
選手たちは自らの政治的思想を実現するために日々を生きているわけではない。
自らの「より速く、より高く、より強く」を求めるだけであり、
その結果が、人類の共感に到るとき、平和への道のりが開けるのだ。

東チモールやシエラレオネの紛争解決のため奮闘した日本人、伊勢崎賢治に
よれば、戦争から平和への実践は、武装解除から始まる。
(講談社 現代新書 1767)
武器を放棄させ、軍を解除し、戦士を社会復帰させるという作業が基本になる。
それぞれの段階で血の滲むような努力が忍ばれるが、その努力は和平に繋がっている。
戦士の社会復帰がゴールとなるが、ここにスポーツへの志向が導入されれば、
大きな効果があるだろう。
今は職業訓練が社会復帰への道のりに大きな役割を担っている。
四年に一度のオリンピックに参加するヒーローは、自らの親兄弟を殺された恨みから
戦士になることを人生の目標にする青少年にとって全く別の道標となるだろう。

アフガン小史を紐解けば、小国がそれぞれの統治を実現しようとする土壌があり、
一国としてまとまるモチベーションがない。
そこに外国勢力が接触し紛争や闘争が起きてきた。
これまでそれを軍事でまとめようとしてきた結果が、
今回のタリバン政権実現を容易にした。

アフガニスタンを纏めるためにオリンピックを使うことができる。
ナショナリズムを凌駕するのがオリンピズムであるが、
パトリオティズムは善用できる。
アフガンを代表する選手たちの活躍は、青少年を良き方向へと導く。

さて、スポーツで平和の論理を如何にして実現して行くか?
何があっても五輪を四年に一度開催して、五輪休戦を実現する運動を継続する。
そのチャンスに自らの人生をかけた人々の努力を象徴する。
そのために万難を排して世界が動く。
この運動を指揮するIOCがオリンピズムの真髄に自らを捧げなければならない。

IOCは政治に関わらないというオリンピック精神を重んじ、これまで
世界平和構築について、それをプロパガンダのように喧伝はしてこなかった。
控えめな表現で「スポーツがより平和な社会を作る」ことを望んできた。
そろそろ本気で世界の政治的指導者をオリンピズムで感化するべきだろう。

中国のチベット人強制労働の問題で、世界の人権団体や政府が
北京冬季五輪の中止を訴えているが、
IOCのバッハ会長は、「IOCは超世界政府ではない」と語ったそうだ。

政府ではないが、超世界的なプライベート団体であるとは言うべきだろう。
私的な機関であるからこそ、政治を超えて、世界平和を導く役割を担えるからだ。

1964年の東京五輪は、世界の人々の和を描き出し、世界平和を象徴した。
しかし、その翌年、米国はベトナム空爆を始めた。
東京五輪1964はパクス・アメリカーナの下で行われた。

東京2020の後は、パクス・スポルト(スポーツ王国による平和)を
実現すべきである。

(敬称略)

2021年10月7日

明日香 羊

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編集好奇
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秋の夜長を感じます。
虫の声、涼しい風、そしてスポーツ思考。
「これでいいのか?東京五輪2020、実践五輪批判」の連載が終了してほぼ1ヶ月。
そろそろ北京五輪に向けてスタートしたいところです。
伊勢崎氏はアフガニスタン復興の第一段階でも民主的選挙が実現できる仕組みを
作るために奔走した。
日本人も捨てたものではない。

春日良一

【Forbes Japan】
いま改めて考える「聖火リレー」の意味と歴史
https://forbesjapan.com/articles/detail/39557

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次号はvol.440です。

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「実践」では実際に五輪がオリンピズムを実現しているのかを批判
「純粋」では大河を触媒にオリンピズムの本当を解説

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コメント

  • マグナ・グレアキア

    勢いのある良い論考だと思います。
    政治、経済、マスコミ等に対して、オリンピズムが大乗的に
    アクションを起こしていくべき時期が到来していますね。

    パックス・アメリカーナのはるか前にはパックス・ロマーナが
    ありました。堕落はすでにここに始まっていると言えるのでしょう。
    カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。
    政治と軍事、経済で世界を支配するローマの前には、真善美
    (その中にはオリンピズムもデモクラシィも含まれます)で支配する
    パックス・ギリシアすなわち「マグナ・グレアキア」(植民都市を含む
    大ギリシア)がありました。
    ルネッサンスが、そして仏教が(ガンダーラなどの仏像文化)
    ギリシアを拠り所としたように、我々は人間である限り、繰り返し
    何度も何度もギリシアを拠り所としなければならない。
    そうクーベルタンも又思ったのだと思います。



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