オリンピックが紛争回避の手段になる ~2020年東京五輪の意味~

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Sport Philosophy
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オリンピックが紛争回避の手段になる
~2020年東京五輪の意味~

佐藤勝と手嶋隆一が共著「知の武装」の第一章で東京五輪開催が、
中国の尖閣諸島の戦略への防波堤になると論じている。オリンピ
ックを単なる経済成長や公共投資の視点でしか論じない世評を批
判している。ことほど左様に五輪を単なるスポーツと見るレベル
では見えてこない五輪戦略があるのだ。

東京五輪をぶち壊す主役にはどの国もなりたくない。ゆえに、尖
閣や竹島の問題解決に強硬な手段を取ることは回避されるだろう
というのがその見方だ。

1964年の東京五輪は大戦後の復興と経済成長が一体となり、そこ
にスポーツのもたらすポジティブなイメージが合致した。日本人
は輝く未来に限りない信頼を置いた。そして、パックスアメリカ
ーナ(アメリカ合唱国の統治内平和)に守られた理想現実空間を
信じた。それがなければ、闇雲な高度経済成長などあり得ない。

この仮想現実的な「スポーツ平和」思想は着実に我々の五臓六腑
に染み渡る。それが日本独自のアマチュアリズムや勝利至上主義
を生み出すことにになるが、それは別の機会に論考することとし
て、ここでは、スポーツが善きなるものであり、そこには我々の
理想を実現できる何かが秘められているという信仰は明らかに先
の東京五輪が日本人に残した遺産であったことを確認するに留め
る。

私の記憶にもまざまざと思い起こされる東京五輪のシーンに一つ
に閉会式がある。閉会式で選手が入り乱れて肩を抱き、手を取り
合って入場するシーンに人間は肌の色や国の堺を超えて、仲良く
なれるのだ!国を超えて人と人が結びあうというのはなんて素晴
らしいことなんだ!と。東京五輪は日本の人々にオリンピックへ
の信仰を確固たるものにしたのである。

しかしその翌年には米国によるベトナム爆撃が始まり、冷戦の中
でも紛争は決してやむことはないのだという現実が突き付けられ
た。しかし、日本のスポーツ界はアマチュアリズム優等生を貫き
大会に参加し続ける。しかし、その甘い構造をつんざく事件がも
ちあがった。1980年のモスクワ五輪へのボイコットである。

「スポーツと政治は別」だからこそ、オリンピックはスポーツで
平和を訴えることができたのだ。しかし、パクスアメリカーナの
主宰である米国はソ連のアフガニスタン侵攻を抗議すべく、モス
クワ五輪への参加をボイコットすべしと自由主義諸国に訴えた。

そして日本のスポーツ界は悪戦苦闘の末、政治に負けて、オリン
ピックをボイコットした。スポーツは国境を超えて人と人とを結
ぶなんて政治的な問題が起こらない状態でのみ言えることに過ぎ
ないんだよ。この教訓を日本のスポーツ界は受け止めた。しかし、
その受け止め方に大きく二つの流れがあった。ひとつは、政治と
スポーツは別、しかして政治がスポーツを支配する現実がある以
上、政治に従う範囲でスポーツ平和が許される。もうひとつは、
五輪不参加の深い痛恨の思いを胸に秘めたものであり、二度とボ
イコットしないためのスポーツ界の基盤強化であった。

そして、さらに奥深く私が見つめていたのは、スポーツが政治を
支配する構造こそが、平和なる世界を実現できる唯一の方策であ
り、それがオリンピズムの神髄であるという思想である。

1964年の東京五輪が示したパックスアメリカーナに於けるスポー
ツによる世界平和希求から、2020年東京五輪は現実にスポーツが
政治を動かし、世界平和を構築できることを示さなかればならな
い。それが二度目の五輪が東京に来ることの真の意味なのである。

そして、このことに実はIOC会長となったトマス・バッハも気付い
ている。彼が満を持してIOC会長になった、しかも2020年東京五輪
が決定する2013年9月のブエノスアイレスのIOC総会で決まったこと
は偶然とは思えない。バッハの繰り出す五輪運営を見ていると、そ
の深層に私と同じ深淵が見て取れるからである。

なぜ、リオ五輪で国家的ドーピングをしたとWADA(世界反ドーピ
ング機構)が断じたロシア選手団を認めたのか?なぜ、1月18日に
中国の習近平をIOCで歓迎したのか?そしてなぜ彼はIOC会長にな
ったのか?

IOC創始者、ピエール・ド・クーベルタンは語った。「オリンピズ
ムは信仰である」と。そして彼の思い描いた世界平和構築の像は、
やがて世界の人々と共有できるものになる。最初から受け入れら
れたわけではなかった。信ずることによってその信念は真理となる
のだ。彼の心の奥底に宿った灯は、124年の時を経て、東京五輪で
花開くことになるだろう。

中国も韓国もロシアもイスラエルもパレスチナもセルビアもボスニ
アもその諍いを超えて、東京に集う若人が、武器なき世界、戦争の
ない世界、子どもたちのための平和なる世界を実現する。そのため
の準備をすることこそが、東京五輪の真の五輪運動になるのである。

平和憲法を有する日本の首都、東京で開催される五輪の夢である。

(敬称略)

2017年2月2日

明日香 羊
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編集好奇
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オリンピズムにあるスポーツと政治の融合こそが、
世界平和実現への秘密の扉ではないか?
という論理を次号でも追及したいと思います。
それはサラエボでのスポーツフェストへの挑戦か
ら得たひとつの思いです。

春日良一

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考?ご期待
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次号はvol.365です。
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コメント

  • スポーツと政治

    スポーツと政治の問題について、いつも思うのは、人間が
    原始以来持っている二つの性格のことですね。
    即ち無垢で無心な、力や能力、技や美に対する信仰の面と
    利口で狡猾、戦闘的で残忍な、理性の皮を被った本能のことです。

    前者を平和指向、後者を戦争指向。前者を大脳皮質の司る理性、
    後者を古い脳の支配する本能(獣性)。つまり、前者は芸術、文化、
    教育、科学、スポーツの領域。後者は政治、経済、軍事、従って
    国家、民族、宗教の領域です。宗教は本来前者に属するものですが、
    現実の世界情勢を考える時、いわば心を鬼にして後者に入れること
    が賢明だと思います。

    こういう前提の上で、再度政治とオリンピックを考える時、我々は
    やはりギリシア人がオリンピアードを発想したその初心に立ち返ら
    なければならないと思います。
    つまり彼らも又、規模こそは違え、ポリス相互間の戦争ということに
    常に苛まれていたのですが、一転そこで“この現実は全て虚仮、夢、
    仮象であって、本来の神々の喜ばれるものではない”という発想に
    立ったわけです。
    これは決して“政治的”なものではなく、ましてや“経済的”なものではなく、
    敢えて言えばきわめて“信仰的”なものであって、その意味でこそ
    まさにクーベルタンの言う“信仰”に起因するものなのです。

    ですから、オリンピックを運営するに当たって我々が“本来”取るべき
    姿勢は、オリンピックによって、政治が動かせる、経済が動かせる、
    パワーバランスを調節できるということではありません。“結果”として
    “動く”ということがあったとしても、それが“目的”となったり、前面に出たり
    するのではなく、あくまで無垢に、無心に、それこそ信仰において、
    人類の理想において、それがその方向に行くというように導くことなのだ
    と思います。バッハはこの点をきわめて良く理解していると思います。

    とは言っても人間という生き物は、無垢、無心、信仰の創造物である
    とともに、恣意、策略、戦略、奸計の創造物であることは、アダムと
    ともにカインを親に持つユダヤ民族が最もよく知るところです。
    ところが、です。この無垢、無心、信仰と恣意、策略、戦略をいわば
    アウフヘーベンしたような境地が人間にはあると思います。
    つまり“無垢なる戦略”、“戦略の中の無垢”とも言うべき段階であって、
    平たく言うと“知らぬ顔をして知恵を働かす”というか、眼前には一切
    国家、民族、宗教などはなく、ただ人類のみを置いて、人類のみを
    愛して、そのために知恵をめぐらす“叡智”とも言うべき段階です、
    ギリシア──クーベルタン──バッハはこのラインの上にあると思います。



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